放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

現実的な日々。

落ちついて本を読むことよりも、論文を書くことよりも、優先してやらなければならないことがある。

研修派遣の事務手続きをしなければならないとか、引っ越しのために諸々連絡しなければならないとか。

ゴミを収集日に合わせて捨てたり、冷蔵庫の食材を余すことなく処分したり。

目の前の現実的な問題でいっぱいで、他の何かを想像しろと言われても、それは困ると言いたくなる。

「いや」と言えることも大事。

学びを手放す。

引っ越し作業をする。

毎回引っ越すたびに、物と向き合う。

アップデートしなければならないものがたくさんある。消耗品。

でもほとんどは、自分には余りあるものばかりだ。

今の自分がほしいもの、未来の自分にほしいものは何か考えながら、残す物を選ぶ。

捨てることは、何を大切にするかを決めることだ。

あれもこれもと欲張るうちは、結局何も自分の手に残っていない。

自分にどのくらいの余白があるだろうか。

余白があればあるほど、新しい何かに向かうエネルギーがわく。

 

学びの履歴を辿り直す。

ゲーム感覚で。

何があったのか?どんな感じか?

学びを拾い直す。

 

*すごろく:単線、ストーリー

*ビンゴ:他者共有、拡散

*ワンタッチオブジェ:身体表現

*物トーク:物を触媒に使う

    *ノート:物トークの限定バージョン

*ねんどの森:造形表現

*セリフ:限定的記憶、言語

*連想ゲーム:リズム、言語、イメージ、瞬発

 

課題→記憶に依存する。何を見て掘り起こすか?(見ないか)無を、どうするか?(それもありか)

友だちとおしゃべりをした。

以下、あいまいでざっくりとしたわたしのメモ。

 

1.善し悪しの前に立つ。

2.どこに価値を置いているか?

3.「授業をしたい」自分を手放す。

4.中庸はない。

5.それぞれが言う「研究」って違うね。

 

うーん。学習者にとって、しあわせな学びの時間ってなんなのだろうな。

何のために何を求めるのかは、やっぱり学習者自身に決めさせてほしいよ。

問いが生じるまで時間はかかるけど、「わたし」が気づくまで、待ってほしい。

学ぶ楽しさは、自分で気づくところにある。楽しくないと、続けられない。

 

子どものための建築と空間展に行く。

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久々に外を歩く。子どものための建築と空間展。汐留。

 

私は小学校時代に旧校舎と新校舎を経験していて、しかも新校舎はオープンスペース(廊下と教室の壁がない)や円形エントランスで、子どもの学びやすさ、過ごしやすさを意識した設計だった。

残念ながら、階段下にある洞穴は私にとっての居場所にはならなかったが、授業では必ずしも使われないような遊びの空間が学校にはあった。

ティーム・ティーチングや習熟別授業が当たり前に行われていた学校だったので、色んな場所を行き来して学ぶ体験もしている。実は、自分の学び方探しの原風景は、新校舎に移ってからの小学校2年間の記憶が強い。

 

展示は教育の歴史とともに学校建築や子どもの遊び場がどのようにして作られてきたかを見せる。何気なく使う教室のものや配置が、さまざまな意図を持って設計されていることを知る。

また、かつての資料を眺めながら、論文の先行研究を調べる際に、明治期の資料がいかに貴重かを知ったことを思い出す。

数十年の文脈では捉えきれない変化もあり、歴史を紐解くことの大切さを実感する。

物語をつくり続ける。

物語の創作が面白い。

シェアードストーリーをしながら、次々とアイディアを書き出す子どもの姿に心が動く。

そうそう、何か自分で見つけたことや作ったものは、誰かに教えたくなることがある。しかも、その内容が誰とも同じじゃない時、私はこうだったとつい言いたくなる。

そこに自己検閲が入ったり、評価の目が気になったりすることで、だんだん面白くなくなり、いつからか誰かに見せるのは恥ずかしく感じたりもする。

だけど、そんなことを感じる暇もなく、自分に湧き出るものを楽しめたら、どんなにすてきなことだろうと思う。

誰かに伝えたい物語がある。その時、気づいたら書いている、そんな学びの場を作れたらいいのにって思う。