放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

問いのバリエーションを自分の中に持てるか

2015年度、生活体験作文を書いている時の学習記録。全7時間。

ホワイトボードを使ったペアでの題材を選ぶ活動からスタートし、個別・グループの選択をしての執筆活動という流れ。

記述内容の全体は読むこと(理解)の授業に比べてどう違う?

理解をメインとする授業に比べ、学習記録には個人の進捗状況の割合が圧倒的に高い。表現の活動だからということもあるが、学習形態から見ても個に任されている時間が長いのだなと思う。ただ、学びや気付きの記述が見られないことを見ると、ただ活動している印象にもとれる。まあ、毎時間学びがあるとも思っていないのだけれど。

「授業の事実」は具体的にどんなことが書かれるのか?

学習記録の導入では「事実」「学んだこと」「感想」の3つを書くように指導する。しかし、実際に書きながら書くために必要なのは「何を書くか」よりも「どんな問い立てをするか」が重要なんだなと気づかされる。

実際に学習者の記述を読んでいくと、一口に「事実」と言っても、それぞれに書き方(問いの持ち方)は異なっている。例えば、今回の授業ではこんな様相。

  • 今日は何をしたか? 例)今日は題材決めをした。
  • どのように活動したか? 例)○○と話しながら考えた。
  • 自分にどんなことが起きたか? 例)アドバイスをもらって、書く内容が決まった。
  • 周りでどんなことが起きたか? 例)○○が質問して、□□が答えるのに困っていた。
  • どんな選択をしたか? 例)2つで迷っていたけど題名を決めた。

この問いのバリエーションを自分の中に持てるかで、分析の深度は変わってくるのだと思う。学習記録を書くことの目的を、「物事を分析する目を養う」とすると、そのためには自分に問うことを重視することが必要となるのだろう。