学習記録のあり方は,授業者の問題意識や信念によって決まる
引き続き,これまでの国語科ノート指導の歴史を追うために,次の本を読んでいる。
この本は「ノート指導と板書」をテーマとして,「子どもが見える授業技術入門」シリーズの第4巻目に位置づけられている。特徴として2つのポイントがある。
1つは,次代の教師への伝達である。読者として想定されているのは当時の若い教師であり,既に教育の質の低下が問題意識として挙げられている。岩浅氏の著書には,他にも若手教師に向けた授業技術伝達を目的としてた著書がいくつもある。
もう1つは,「子どもが見える」というところにある。「授業で子どもが見える」とはどういうことなのか,どうしたらそれは可能なのかという問題意識に対して,「ノート指導と板書」という切り口で国語科に限らず,数名の実践例が載せられている。
これまでに,いくつかのノート指導に関する書籍を読んできたが,一口にノート指導と言っても,その志向する姿はそれぞれに異なっている。例えば齊藤喜門であれば「ひとり学びを育てる」ことが目的であり,白井勇であれば「思考力を伸ばす」こととなる。
授業のあり方が学習記録を規定することは自明のことであるが,授業者の学習記録に対する目的の違いも,当時の問題意識や著者の信念によって異なるのである。
固定化される板書が書き写すノートを生み出した?
本書も,ノート指導と板書のしかたを合わせて実践が述べられていく。
既に紹介した石田「発問・板書・ノート」においても,板書の機能とノートが教師の認識としてセットで考えられていることは同じである。
特に,横須賀薫は,1980年代には指導案に「板書」に関する記述が増え始めることを指摘しており,その固定化された板書の問題と,「書き写すノート」のあり方への警鐘を述べる。
指導案をざっと眺めているうちに一つ気がついたことは,最近のものにはたいてい最後に「板書計画」とか「板書予定」という項目が立てられ,記入されていることである。(p.32)
問題は実際の授業があまりにも「板書計画」に支配されてしまうことであろう(p.34)
また,横須賀は板書の固定化のはじまりとして芦田恵之助の“七変化教式”を挙げ,「その板書の形式はそのまま信奉者の間で模倣され,後には一つの形式として固定化されるようになってしまった」(p.39)とも指摘する。
「組織学習」におけるノート指導で子どもが見える?
横須賀はこのような固定化された板書とそれを書き写すだけのノート指導に対して,「組織学習」と呼ばれる授業形態におけるノート指導のあり方を提案した。
板書やノート指導の工夫が本当に必要とされ,それが生きるのは,子どもたちの学習を組織化しようと試みる時である(p.40)
「組織学習」とは,①個別学習②組織学習③一斉学習④整理学習という手順で進められる学習である。その詳細については斎藤喜博『授業の展開』を参照してほしい。
横須賀は,『国語教育辞典』(朝倉書店)のノートの使い方の2側面(教師の指導事項を記載する場合と,学習者の自己研究を記録する場合)を参照し,「組織学習」におけるノート指導は「学習者の自己研究の記録としての機能がある」こと,またその重要性を述べている。
ノート指導における教師の役割とは?
もう一つ,横須賀の提案の中で,注目すべきは,ノート指導における教師の役割について述べられていることだ。
「子どもがノートに記したものについて軽重をつけ,追求すべき問題とこの段階ですましてしまう問題とにふわけしていくのが教師の指導として重要になる。さらに,子どもと子どもを結びつけ,交流させていくのも重要な指導である。ノート指導はこのように,形式的なものではなく,内容的なものである。(p.48)
大村はまの「学習記録」実践を見ていても思うところだが,子どもが書いたものをどのように読み,どのように価値づけをしていくかということは,教師としての力量が問われる場面である。
また,ノート指導だけでなく,上條晴夫氏の「見たこと作文」など,子どもたちが書いたものを共有する実践においても,子どもの書いたものをどのように取り上げるかは経験的に簡単なものではないと感じている。これまでの学習で培われた力や,学習者一人一人の実態,授業における文脈など,総合的に判断されてその場の教師が決めることであり,一般的な授業技術としてまとめられるものではない。
探究型の授業を志向し,その中でノートを活用していこうと考える教師は,必ずと言っていいほど,個別の学習者の記録をどのように扱うか,授業の収束としてどういう方向性を示すかは迷うところなのではないだろうか。
学習者による探究的なノートを目指すとき,教師としての役割が十分にはたされているのかどうか,この課題を提示していることにこの本の大きな価値があると考える。