放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

【メモ】石田佐久馬(1964)「発問・板書・ノート」

新型コロナの第3波の対応に追われ,先週から二者懇談,来週は三者懇談と続き,学校現場は常に疑問と不安と決断に迫られている。

1・2年生は希望制で今回は見合わせるという家庭も多いだろうが,3年生は受験を控え気が気じゃない。コロナの心配もありつつ,進路決定の最終確認として三者懇談を実施しないわけにはいかないだろう。ネット環境整備にはまだまだ時間がかかる。

これが学校現場の現実である。

 

今週はノート指導に関する読書も停滞気味で,今日はメモのみ。本日はこちら。

 石田佐久馬の他の著書。

 筆者はお茶の水女子大学附属小学校の教諭。小学生のノート指導がメインである。「自己教育力」がテーマであり,一貫して学習者自身が学びを進めていくためにノートはどうあるべきかが石田の問題意識である。

 

以下,引用とメモ。

 

教師側から見たノートの機能【授業評価,実態把握】

p.205

(※要約:教師が授業参観でノートをのぞき込むのは)参観以前の学習のようすを知るためにノートを唯一の手がかりにしたいからである

石田のノート観【一律への批判】【個性重視】 

p.206

ノートは授業の鏡である

 

ノートを通して,教師の新しい国語教育に対する考え方がほぼ見当がつくものである。新しい国語ノートは,新しい指導理念をすじがねにしたものでなければならない。新しい指導理念からは,必然的に新しい授業が生まれるはずである

 

 わたしたちは,むかしのような固定化した平板なノートからぬけ出して,ひとりびとりの子どもが真に愛着を感じるような生きたノート作りをしなければならない。

 これまでのノートに与えられた役割と石田の問題意識

pp.207ー208

過去の国語教育が,文字言語にかたより,なかでも文章の読みを第一等の地位にすえていた。したがって,ノートの使命は,文章の読みに奉仕することとされていた。そのこと自体はまちがいではないかもしれない。

 

したがって,ノートは,「書くこと」の一つの分野にはちがいないが,従来のようにただ読みに奉仕するだけのせまいものであってはならない。

社会の要求に適応する生活技能として,ひとりびとりが,「書くこと」をしっかりと身につけなければならない。小学校では,その基礎がためをするのである

ノート評価の問題点

p.209 

ノート評価の基準を外形的な美しさに置き,内容的なものや,書く過程のたいせつさを忘れていた,その偏見に我ながらあきれざるを得ない

p.210

ノートは書き手自身のものであるから,報告文や学級日記や,提出する作文のようにことさらきれいに清書する必要がないと思う。要は,なかみが問題なのである。

p.211

ノートをするということは,板書をまるうつしする機械的な書写だけではない。また,漢字の書き取りや,語句の意味を書くだけのものでもない。多面的な国語学習のなかで,それぞれの目的に応じて主体的に書く働きがなければならない。 

ノートの意義

p.213

したがって,ノートは,国語学習をダイナミックに動かす原動力となるばかりでなく,それによって身につける「書くこと」の生活技能が,社会生活に生きる基礎となるものでなければならない。「作文の時間」は,多くをとることができないが,国語の時間のなかでノートに書く時間は,授業操作の面でいくらでもとることができるはずである。

私は,「国語のノート学習は,作文である」と言いたい。これはけっして誇張した表現ではない。なぜなら,他教科で行うノートとはちがって,国語のノートは有力な学習材であり,ノートすること自体が,有力な国語学習であるからである。

 

【メモ】

  • ノート評価の問題点については,今も1960年代も変わっていない。→なぜか?

  • ノートが「書くこと」の一分野としての位置づけ。→「第三の書く」との関連はどう説明できるか?

  • 「国語科」としてのノートの位置づけが明記されている。→大村はま「学習記録」でも同様のことが主張されている。何が同じで,何が異なっているのか?