放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

即興を教育に位置づける。

コミュニケーションは即興の繰り返しなのだと思います。

 

何を当たり前な、と思うかもしれませんが、

私はあまり意識してきませんでした。

 

教室は同学年の集まりで、言ってみれば同質性の塊です。

その中でのやり取りは、時間とともに固定化していくものになります。

特に何も意識しなければ関係の更新がされにくく、

弱いつながりによってのみ構成されていく集団となります。

実は本当のところ、相手のことをよく知らない、そんな現象です。

そういうことを、この数年考えるようになりました。 

 

そんな中で、ゲストティーチャーや異学年交流など、

教室の同年代とは異なる存在と交わる教育の実践を多く知るようになりました。

その一つに出前授業がありますが、その実践については、授業づくりネットワーク誌がとても参考になります。

 

授業づくりネットワークNo.20―出前授業完全マニュアル。 (授業づくりネットワーク No. 20)

授業づくりネットワークNo.20―出前授業完全マニュアル。 (授業づくりネットワーク No. 20)

 

 

創造性豊かな社会を理想とするならば、

社会はもっともっと多様な存在が交わり合う場であるべきで、

このような異質な他者との対話はこれからの教育に必要なものだと思っています。

 

一方で、この実践には「イベント化」するという側面も持っています。

もっと実生活らしく、身近な感じがほしいなと私は思います。

 

それで、例の本から、大村はま1997年の講演を読んでみると、

「談話室」という単元案が紹介されていました。

大村氏自身も「夢だと思って聞いてください」と語っていて、

当時にしてみれば、画期的な提案だったのでしょう。

(違ったらごめんなさい。)

全校生徒の「個室」完備、学年四・四・四制の実施など、

斬新な、しかし学習者の学びの楽しさがありありと浮かんでくるような

そのような学校づくりの構想が語られています。

 

その中で「談話室」というのも位置づけられていて、

場の設定だけでなく、その場でどんな人がどんなやりとりをするのか

どんな目的があるのかまで詳しく書かれています。

そこには学年の垣根などありません。

知っている人、知らない人、さまざまに交わって交流する場になります。

 

さて、即興の話に戻します。

そのような異質な他者との出会いほど、

その場で考えて相手のことを知ろうとしたり、

共通の話題を探したりする力が必要となってきます。

 

「多様化」「グローバル化」といった大きな見出しのような言葉について

私はもう少し突き詰めて知らなければならないと思っていますが、

現段階ではそのような社会のあり様が見えている中で、

「談話室」という単元は、十分に価値のある実践だと思っています。

 

友達2人で話していたら転校生がやってきて、転校生を交えて3人での対話になる。

すると、途中で校長先生が「何を話しているの」とやってきて、3人は校長先生に説明をする。

そのうちに、今度はベンガルの留学生がやってきて、話の流れでおいしいラーメン屋さんの話をする(これは筑波大学での実話)。……といった感じです。

 

この、偶然の産物というか、ハプニング性というか、

予定調和ではないことに対して自然と対応できることが

即興で育まれる力と思っています。

 

例えば、というので「談話室」という実践案でお話してみましたが、

その時々で、相手と自分を柔軟に寄り合わせながら対話のできる場が

教育に位置づけられたらいいなと思って書いてみました。

 

夢だと思って読んでください。

大村はま国語教室の実際

大村はま国語教室の実際

 

 

リフレクションの強度

授業記録を通して思うのは、目標や達成する観点が明確であるほど、リフレクションは自然と促されるのではないか、ということです。

 

例えば、今日は意見文を書こう、という課題を設定したとしましょう。

 例1)その意見文は誰に対してどう働きかける意見文なのか、

 例2)社会でどのように生きて働く力となりうるのか、

 例3)伝える手段として適切なことばや構成を効果的に用いているのか、

 ……

などとと意見文の具体像を考えていきます。

なぜ意見文を書くことが必要なのか、

子どもたちのこれからさしあたって必要になる場面はどんな時か、

突き詰めて考えてみるのです。

 

「突き詰める」とは、「なぜ」「何を」という問いを8回くらい繰り返して深堀してみることを示します。

(8回に根拠がないのですが、この間教授と問答を繰り返して考えが深まった実感のある回数なので……)

 

その土台の上に、実際の授業を構想していきます。

ちょっと伝わらないかもしれないが、このような練に練った構想が単元学習を支えていくのではないかと思っているのです。

そういう学習というのは、学習過程でも、意見文を書きあがった段階でも、

こういう力をつけてほしいな、という姿が見えているわけで、

それを子どもたちにも最初に伝えていれば、

終わったときに成果が出ているのか、出ていないのか

おのずと完成した意見文発表の時には子どもたちの中でもリフレクションが行われるのではないかと思います。

 

ただ、人数が多いとか、時間が足りないとか、

そういう理由で書かせるだけになていると、

それは振り返ったり、自己評価したり、内省したりする時間が持てず、

次の活動に活かせない、という結果をもたらすのではないでしょうか。

 

それから、「相対化」「メタ認知」というのもキーワードだと思っています。

具体的に、自分の成果はこれまでの自分と比べてどの程度の力を発揮したと言えるのか、それを言語化する学習記録は価値あるものになるのではないでしょうか。

 

最近は学びの連続性ということも考えています。

PDCAサイクル、リフレクションモデル、など、

ある一定の再評価をした後は、また次の行動に移るものです。

その次のステージに立った時に、前回のリフレクションが生かされるためにも、

具体的な目指す場所と、自分が実際に学びによって立った場所と

どの程度差があるのかということを、学習者自身で気づくことができたら、

深いリフレクションと言えるのではないか、と思っています。

 

今日の書いたことは、すべて思い付きです。

あしからず。

守破離

型を知ってこそ、型破りな発想が生まれる。

 

天才は置いといて……

凡人のひとりとしては、やはり型から入るのが一番かなと思います。

 

今日は授業実習の日でした。

子どもたちがあれこれと考えながら限られた時間の中で自分の考えを書きます。

そこには最初に型がありました。

 

教師のフレームを示すことで、学習者の発想を殺していないか、

という批判がありそうなのが「型」です。

 

このあたり、不勉強なのを承知で言うと、

私が描く「書ける人」像は、

 

①「型」から入ってひとまず「書ける」を体験する。

②一度「書ける」とまた次も「書けそう」となる。

③ ①と②を繰り返す。

④気づいたら書いて書いて書きまくっている。

 

というプロセスをイメージします。

まぁ、型にもさまざまな質のものがあり、

それは学習者がどんな力を持っているかによって示される物は

変わってくるのかと思いますが。

 

ただ、書き続ける中で、型から外れていく瞬間が生まれるのではないかと思います。

 

「先生、ここはこうしたいのですがいいですか」

 

こういう質問が来たときは、おぉ!いいぞぉ!、と心密かに思います。

その人のオリジナルは、繰り返すうちに生まれてくるのではないか。

私の考えです。

 

……と書こうかなぁと帰り道に思いながら、ふと目にしたのが次の記事でした。

 

headlines.yahoo.co.jp

「まねる」は「学ぶ」ね……よく言ったものです。

 

そして、道と付くものは日本でずっとたゆまずに続いてきたことに気づかされます。

 そこで重んじるのはやはり「型」から入ることでした。

 

そう思えば、未来はいつだって見えませんが、

なんとなく不易なものは見えてくるのではないでしょうか。

どうですか、ね。

自分にとって価値ある選択をするためには。

毎日は選択で満ち満ちている。そう思うことはありませんか。
 
朝ごはんは何を食べよう。夕食は何にしよう。
ああ、今日は暑いのかしら。何を着よう。上着は必要かな。
という日常レベルの選択もあれば、
 
私はこの先どこでどう過ごそうか。
どの職を選んだら幸せになれるのだろうか。
という自分の人生の分岐点となるような選択もある。
 
どれを選んだらいいのかわからなくて戸惑うこともある。
「現状維持」を選択して時間が過ぎていくこともある。
大胆に方向を転換するときもある。
 
正解はない。ただひたすら自分の選択があるのみですね。
思い切って言うと、選択するということは、一方を選び、一方を捨てるということです。
(捨てずに、妥協するとか、折り合いをつけるとか、
   新たな選択肢を生み出すとかいう方法もありますが、ひとまず置いといて)
 
情報量が多くなり、多様化、個別化が進む中で、
私たちが選択しなければならないことは多くなっています。
その際に必要になるのは、核となる自分自身ではないでしょうか。
自分を知らねば自分にとって必要なものは見つけられない。
自分が何に心を動かし、何をしたいと思っているのか、
そこが見えてこないと、「とりあえず」の選択の繰り返しです。
 
教育実践も、選択の一つです。
私たちは、書籍やネット情報で、全国各地の実践や授業ネタを知ることができる環境にあります。
たくさん知っていれば、たくさんやってみたくなる。
これが人間の心理ではないでしょうか。
 
ただし、そこに「自分」はあるのか、という疑問です。
私は、魅力的な商品を消費するような学びをしているのではないか、
とずっと思ってきています。
 
だから、記録を残して自分を省みることが必要だと思うのです。
この実践は本当に自分で納得してできているのか、
そもそも楽しいと思えているのか、
それを受け取る子どもたちはどう思っているのか……。
本当に必要なものを選択したい。
未来を生きる子どもたちにも、自分の価値ある選択をする力を持ってほしい。
それで、「学習記録」にこだわっているわけです。
 
昨日も図書館で読みました。
大村はま国語教室の実際

大村はま国語教室の実際

 

 上巻最後の『ことばの海 ことばの森』という実践が素敵で、

「選ぶ」ということについて思っていることを言語化してみたくなりました。

 
何を選んでもいい。
その時の自分のことばで、自分の学びを表現できるといいなと思います。

自分の本心と反対の行動を取ること。

5月に入って、寝不足だった
 
3日から4日にかけては、ほとんど寝て過ごした。
昨日、ソフトボール大会のためにバッティングセンターに行く、という
大学院同期のおもしろい企画に参加することで、
やっとのこと自分の身体を外に向けることができた。
それ以外の起きている時間は、ご飯を食べているか、源氏物語を読んでいるだけの生活だった。
 
源氏物語は授業の課題である。
私は高校卒業後、国際文化課程に進んだが、
そこでの一番の興味は「古典を通して異文化理解を深めたい」だった。
外よりも内を見る指向が強かったと思う。
 
源氏物語瀬戸内寂聴訳)は再読してみるとなかなかおもしろいもので、
30歳の自分になって改めて登場人物の心情を考えると、
10代の時の読みとの違いに驚かされる。
 
特に興味深いのは、葵の上の心情と相反する行動だ。
葵の上は10代のころはあまりよくわからなかった。
でも、今は少しわかるような気がする。
思っていることと行動が必ずしも一致しているとは限らないことを少なからず見てきたからだ。
 
「言っていることと、していることが違うじゃんか」と思う瞬間はある。
自己防衛のために自分の想いとは反対の行動を取ってしまう、ということなのだろうか。
他人の行動だけではなく、自分自身の行動にも気づかされることがある。
 
また、立場やプライドが言動を規定してしまうこともある。
そこから少しでも自由にありたいと思いつつ、
立場上、そんなことは言えない、というのはよくあるものだ。
 
思っていてもここでは言わない。
良くも悪くも、日本のコミュニケーションのあり方まで考えてしまう。

 

源氏物語 巻一 (講談社文庫)

源氏物語 巻一 (講談社文庫)

 

 

教育現場にコーディネーターは必要か。

このニュース。SNS上でよく見ます。

www.asahi.com

昨日は東京都内の中学校に授業参観の実習に行きました。

 

同じタイミングで他校の大学院に進んだ方が、特別支援の講師をされていると知って驚きました。

しかし、ふと私の大学院同期でも、週に1度講師をしている人がいます。

大学院生が現場を行き来するのは当たり前の光景なのだなと思い知ります。

 

人が足りてない・・・というか、いろんな人が混ざっている。

そんな実感を抱きました。

 

授業参観中、普通に特別支援の先生が行き来しています。

そのためか、生徒は外来者の私が後ろに参観していてもあまり興味関心ないようです。

(内面はわからないけれど)。

出たり入ったりしている人がたくさんいると、生徒は慣れるのかなぁと思いました。

 

 

別な話で、先日組織開発のセミナーに参加したのですが、

これからの組織開発は

 「組織として問題を見える化して」

 「腹をくくってとことん話し合って」

 「最終的に同じ未来のビジョンを描く」

という話でした。

(ちょっと乱暴なまとめかもしれません)

 

その話を聞きながら、

今のように雇用形態や背景の異なる者同士で協働していくためには、

コーディネーターが必要だということを強く感じました。

しかも、教師業務の片手間じゃなく、

本気でコーディネーター業務を行う人です。

 

「多様化」「働き方改革」「グローバル化」・・・

今、これからの未来を語るにあたってさまざまなキーワードが出されています。

www.recruit-ms.co.jp

 

  

教育現場はその役割を誰がやるのかがあいまいだと私は思っています。

特別支援は一応コーディネーターが位置づけられているけれど、

管理職のリーダーシップでガシガシの職場もあれば、

学年主任がまとめ役をする職場もあり、

研修係に委ねられているような職場もあり、

はたまた、力があると信頼されている先生が裏で牛耳っていたりするような現場もあるでしょう。(たぶん)

学校によってありようはさまざまでいいと思うのですが、

1つの組織をつなぐ役割の人って、いるようでちゃんと定まっていない実感があります。

 

基本的に、教師ってひとりでなんでもできるって思いがちです。(自戒)

実際、目の前にいる生徒や保護者を前にして、いろいろなことが起こりますから

いろいろな仕事をやらなきゃいけないのも事実なのですが、

多忙多忙多忙・・・と言っているよりは、

さまざまな人の役割分担を明確にして

全体を見られる人がいると、もっと働きやすくなるのかなと思いました。

 

ただでさえ、人事異動で入れ替わりの多い教育現場なので、

新しい人が入ってきても安定した職場環境を整えることは必要だと思います。

 

そんなわけで、今日は組織としてのコーディネーターの必要性を語ってみました。

 

専門でもなんでもないのですがね(苦笑)ご批判ください。

 

 

4月の振り返り

卯月があっという間に過ぎていきました。

 

『教師教育学 理論と実践をつなぐリアリスティック・アプローチ』のALACTモデルのページ(P136)をPCの横に開いて、

「ごっこあそび」のように振り返りをしてみましょう。

教師教育学―理論と実践をつなぐリアリスティック・アプローチ

教師教育学―理論と実践をつなぐリアリスティック・アプローチ

 
  1. わたしは何をしたかった

  • ひたすら本が読みたかった。
  • 筑波大の先生や大学院生と対話をしたかった。
  • 東京での民間セミナーに参加したかった。
  • 健康的で人間的な営みをしたかった。
  1. わたしは何をしたのか

  • 生活環境を整えてルーティーンをまわす。
  • 修士論文に向けたお作法を学ぶ。
  • 先人に会いに行って話を聞く。
  • 授業に休まず参加する。
  • 論文のテーマと方法について悩む。
  1. わたしは何を考えていたのか

  • 体力をつけなければならない。
  • 文章を書く時間を固定して毎日コンスタントに書くべきだ。
  • 書くためには読むことも必要だ。
  • お金の節約をしなければ、今後の充実した研修に結びつかないのでは。
  • 健康的な食生活がなければ書くとか読むとか言ってられないのでは。
  • 骨太な実践の一歩としてルーツをしっかりと学ぶのがよさそうだ。
  1. わたしはどう感じたのか

  • 無理してる!
  • 本当にこれが自分のスタイルに合っているのか?
  • 考える時間が持てていないぞ
  • 基本的に苦しいこともあるが、楽しくて幸せ
  • 正直、多少の浪費は覚悟で食生活は「食べない」をなくせればいいかな
  • 決まった時間に、有無を言わずに計画を立てることと書くことと読むことをおこないたい。

 

というわけで、五月病に気をつけながら、最優先事項は「書くことと読むことで考える」にしたいと思います。

もちろんここに書かなかったいろいろがあるのですが、意識化に一番に置かれているものを言語化しました。

 

皐月は文献収集(コレクション)をしつつテーマを追究したいと思います。

あれ?かみ合ってないかも・・・ま、いっか。