放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

今日は1冊の本を読もう。

世の中は情報過多だ。

今しかできないことは何か。
未来の自分のために今できることはなにか。

「そんなのわからないよ」
「そんな時は、自分の好奇心の向く方へ」

そうだった。この先のことなんて誰にもわからない。
正解なんてなくって、価値を作るのは自分。

巡ってきた機会と、与えられた自分の能力の中で、やれるだけのことをやる。
淡々と、優先順位をつける。
足し算よりも、引き算をする。

焦らず、一つずつ、自分のペースで。

学習者と授業者のあいだの目線で授業をみる。

私たちは「おもしろい授業」を考えるのは得意だけれど、

その授業が確かに効果があったのか「検証する」ことを曖昧にしている。

昨日はそのことを前提にして、主として授業研究の方法を学んだ。

 

大学院生になってよかったと思うのは、

自分が学習者になれる、ということだ。

 

どういう授業構成になっているか。

話し方はどうか。

問いの投げ方はどうか。

何を学生に聞き、何を説明するか。

何分に何回笑える場面があるか(私にはここが重要、笑)。

その時、自分はどう感じるか。

他の学生の反応はどうか。

 

もちろん、院生はただ「学ぶ」だけではなくて、

常に他の人がない情報を提供する側であることも必要だ。

現職の立場は自分の経験から見えることを言語化する。

レベルの高い協同学習が行われていると日々思っている。

 

だから、授業の受け方は話の内容をメモすると同時に、

授業が構成的かどうか、

教授法はどのタイプか、

学習者の活動はどの程度活発で

どの程度思考が促されているか。

そういったことを考えながら授業を受ける。

授業者にとってはあまりいい学生ではないかもしれない。笑

 

来週から東京の中学校へ授業参観に活かせてもらえることになりそうだが

授業の記録をどうしようか、いろいろ模索してみようと思う。

そして、記録をたくさん残そうと思う。

私は現場にいて記録を残すことを重視してきたけれども、

圧倒的に少なかったとも思っている。

記録を残すのに、一人では限界がある部分も見えている。

 

授業後に振り返って個の力が見えるもの、

教師の特徴が見えるもの、

この2点は最低でも重視したいと思っている。

 

 

それにしても、大学院生で余興ビデオを作成するために

昨日は空きコマが埋まってしまった。本が読めなかった。

それでも、同期はとても意欲がある素敵なメンバーなので

協同で創作するのも一人一人の活躍がおもしろい。

ここでも学ぶところがたくさんある。

 

歴史の上に今があり、今の上に未来がある。

昨日は田近洵一氏『国語科教育問題史』を読みました。

戦後国語教育問題史

戦後国語教育問題史

 

 田近先生と言えば、国語研究界では国語教育の辞書の編纂にも携わる方です。

『増補版』は「大村はまの実践がないじゃないか」というご意見があり

その部分を追加した形になっています。

 

先日、尊敬する国語教育の文献研究者とお話する機会がありましたが、

わたしの中に「歴史」とか「社会」というものが

キーワードとして研究のどこかに、関心としてくっついているのだなと認識しました。

学部の2年生まで日本史研究室で古文書の講読をしていましたし、

卒論(と呼べる代物ではなかったですが)も古典を社会的視点(地理的なことや社会制度など)で読むものでしたから。

 

 

また、現場で動詞の活用を教えながら、

目の前の生徒たちの20年後にこの学習はどう活きるのか

ということも考えていました。

1つ1つの学習のあり方は時代によって変わります。

今もまさにその過渡期なのだと思いますが、

その際に見つめるべきは「歴史」ではないかと私は思うのです。

 

それで、本書を手にしました。

 

まえがきだけ引用します。

  戦後の国語教育の特質の一つは、実践の根底に学習者論があり、国語の学習を児童・生徒の主体的な行為としてとらえてきたことである。

 単元を設定するにあたって、先ず、児童・生徒(学習者)の学力や興味・関心の実態を問い、それを土台に単元の趣旨を明確にしようとしたのは、そのことの一つのあらわれであろう。文学教材の読みの学習で、学習者の初発の感想を重視するようになったのも、また、学習活動として、発表や話し合いを取り入れるようになったのも、学習者重視の思想に基づくものと言える。

 国語教育におおいて、学習者である児童・生徒にとってその学習にどのような意味があるのかを問うたのは、戦後に始まるものではない。たとえば、生活綴方教育は、現実に生きる学習者の側から教育のあり方を追求したところに生まれたものであった。すなわち、その教育は、学習を、「生徒台」に立つ児童・生徒のアクチュアルな行為としてとらえ、その現実との関わり方を言語と認識の問題として教育内容の中に位置づけたのである。

 戦後は、さらに、国語学習としての言語行為を児童・生徒のものとして成立させるのはどうしたらよいかの実践的追究が多様に展開した。大村はま氏の単元学習をはじめ、初発の感想を生かした授業、一読総合法の授業、その他、朗読(音声化)や動作化、吹き出しなどの学習方法の開発などは、学習を児童・生徒の主体的な聞く・話す・読む・書くの活動として成立させるための模索の成果だと言えよう。

 私は、そのような戦後の国語教育の展開を、学習者論から学習行為論への発展期としてとらえ、今後、さらにその教育の充実をはからなければならないと考えている。

新学習指導要領の答申が公表されてから「主体的・対話的で深い学び」というキーワードをよく聞きますが、戦後から(もっと言うと戦前から)「主体的」はキーワードとしてあげられてきたことがわかります。

現場で聞く「今に始まった話じゃないよね」というベテラン先生の話が聞こえてくるようです。

ただし、これまでにさまざまな実践の工夫(学習行為の創造)がなされ、今は「対話」が重視されていることは現場でも感じることでした。

表現や思想はいろいろありますが、学習者が学び合うことや対話し合う活動がさらに注目されている状況にあるのは間違いないでしょう。

 

さて、新学習指導要領に向けての議論が進められています。

本書を読み、さらにこれまで積み重ねてきた議論も追い、

結果として得たのは「現場にどう活かされるか」という疑問でした。

 

先日「空白の10年」という言葉を久しぶりに耳にしましたけれど、

現場において、「これはやってみよう」という魅力的な実践が生まれないと

新しい学習行為の広がりが生まれないのではないかと思います。

そして、それがこれまでの議論の本質を踏まえて、理論に基づいたものになること。

それが「空白の10年」を埋める作業になるのかなと思います。

 

少し大きな話をしてしまいました。

でもわたしにはおそらく30年以上の教育と向き合う時間があります。

30年と言えば、世代が変わる時間です。

新しい世代が生きる時代はどうあるべきか、

考えられる今を逃してはいけないと思っています。

 

 

 

自分の作文指導の原風景を思い出す。

私は作文が苦手だ。

よく書けたな、という時もある。

しかし、「いまいちだね」「何が言いたいのかわからない」「思いが伝わってこない」「そもそも“てにをは“ができてない」と、職業を忘れたいくらい酷評を受けることもある。

 

たいがいそういう時というのは、何を伝えたいのかが定まっていなかったり、

自分の想いに任せて書いてしまい読み手への配慮がなかったりする。

※今も私の駄文に御付き合いいただき、本当に感謝いたします……。

 

ただ、書くことは続けないと力もつかないだろうとも思っていて、

それで書くことを大切だと考えている。

そんな自分だから、修士論文を書けるのか?が目下の課題である。

そのため、書くことに関する本が今はとても気になる。

 

「書くことは考えることだ。」

昨日久しぶりに再読した山田ズーニー「伝わる・揺さぶる!文章を書く」でも冒頭から述べている。この本を読むと、「作文が苦手」なのではなく、「考えることが苦手」、もっと言うと、「自分で問いを立てるのが苦手」なのだな、と考えるようになる。

 

 

伝わる・揺さぶる!文章を書く (PHP新書)

伝わる・揺さぶる!文章を書く (PHP新書)

 

 

冒頭では「とりあえず」が連発する高校生の作文を、2時間で本人の本音を引き出す作文に変える。劇的ビフォーアフターだ。

その部分を読んで、「そうか!私の作文指導はこれを理想としていたのか!」と思った。

 

山田氏は高校生に「問い」を与えてインタビューをする。

高校生はその「問い」に答えながら自分自身の考えを見つけていく。

まさにこの風景が、私が教室で行っていたことだった。

 

きっかけは、自分の高校時代の小論文に悩んだことだった。

それで本書を手にして、小論文課題に取り組んだのだった。

だから、中学生で作文に困っている生徒を見ると、問いを投げかけて

本人の言葉から発せられることを文章化する作業を行ってきた。

本を読んで、いまさらながら気づいた。

 

つまり、

作文を書くには、

考えることが必要で、

考えるには自問自答が必要で、

自問自答のトレーニングとして対話が必要だ、と私は考えている。

 

理論的なところはまだ不勉強だと思う。

作文教育を専門に調べるのかどうかもわからない。

しかし、筑波大学では国語教育コースで作文教育のプロジェクトがある。

そういえば、今日はその授業だったなと思い、

私の体験をもとに振り返りをしてみた。

 

さて、今日も学びにいってきますか。

 

苫野一徳『子どもの頃から哲学者』 と 映画『みんなの学校』 と 授業づくりネットワーク

週末は東京に行ってきた。
 
研究会への一般参加は本当に久しぶりだったので、
 
どう立ち振る舞えばよいのか、少し(結構かな…)緊張していた。
 
 
その緊張をごまかすように苫野さんの本を読みながら電車移動した。

 

子どもの頃から哲学者 ~世界一おもしろい、哲学を使った「絶望からの脱出」!

子どもの頃から哲学者 ~世界一おもしろい、哲学を使った「絶望からの脱出」!

 

 

 
これまた衝撃の内容で、「ここまで書いていいのかな」と思うくらいに
 
苫野さん自身を開示しつつ哲学という学問について書かれている内容だった。
 
勇気をもらった(笑)。
 
研究会の合間もずっと読ませてもらい、たくさんのメモを残した。
 
1つだけ言うと、「思いつきからの脱却」というテーマをいただいた。
 
 
初日はファシリテーション協会東京支部のイベントで、
 
『みんなの学校』の上映会と、そのあと木村元校長先生の講話だった。
 
映画は2回目だったにも関わらず、今回は私自身が卒業式を終えたあとだったのもあり、
 
ものすごい勢いで泣きじゃくって参加する、という事態になる。
 
そのあと、4人で対話だったのだが、みなさん優しく話を聞いてくださった(笑)。
 
言語化はちょっと難しい会だったが、100名以上もの多種多様な人たちを
 
ファシリテーションしていくのには組織の力が必要で、東京支部の方たちのチーム力を感じた。
 
 
最後に授業づくりネットワークでは、出前授業とインクルーシブ教育がテーマだったが、
 
私がこれから扱おうとしている研究テーマの「記録」についてたくさんの情報を得た。
 
また、大学院での研究に対して、贅沢な悩みを聞いてもらい、論文の計画が少しだけ立ってきた。
 
目移りする自分だけれど、これから30年以上のキャリアが待っているので、
 
この2年間で社会を見つめてどんな教育をしたいのか考えることと、徹底して文献に当たることが明確になった。
 
 
ただし、最終的にはわたしはわたしにしかなれないので、
 
みなさんからの学びを吸収しつつ、自分のできることをできるだけしようと思った。
 
 
それにしても、とてもありがたい2日間だった。
 
つくづく自分は恵まれているなと感じた。

未完成で美しくないもの。

今週、もっとも心が弾んだ授業は国語科教育法だった。

 

今年は大村はまの歴史的アプローチによる検証がテーマだ。

詳しい内容は言えないけれど、大村はま実践の美しくない部分をたくさん見た。

そりゃそうだ。どんな教師にだって、試行錯誤はある。

大村はま実践は大村はま先生にしかできないものだけれど、そこで思考停止していては何も生まれない。そこから何かを抽出して、汎用性を見出すことができないか。

大村はまもきっと、ずっと、このままではいけないと思いながら授業に立っていたのだろう。

なんだか、感傷的だが、希望を感じる75分だった。

 

私は学習記録を北海道からダンボール何箱分も持ってきた。

しかし、自分の実践を直視することに躊躇っている。

そこには子どもたちの努力と共に、私の未完成で美しくないものがごった返しているからだ。

やり直しのきかないことはわかっている。

だからこそ、そうすることしかできなかった自分に悔しくなるのだ。

 

でも、それが当たり前で、現実なのだ。

はじまりはいつもそこからで、心の引っ掛かりに立ちどまってもいられない。

時間はかぎられている。

方法に検討をつけたら、あとは坦々と資料を解読していこうと思う。

たとえこの先に湧き水がなくても、進まなければ何も始まらないからだ。

 

困難や苦労を味わいながら、その先に見えるだろうヒカリを求めて、今日も新しい何かに出会うことを期待はしようと思う。

純粋な気持ちで学問と真正面から向き合いたい。

それが今のわたしの希望なんだ。

 

 

印南淳史「世界一やさしい読書習慣定着メソッド」

国語科の世界にいると、みなさんの読書量の多さに驚かされます。
国語教育コースに来てからも「○○は知っている?」という会話を耳にします。
 
知らないことが多いのですね。
その度に私は恥ずかしくなります。
 
 
私は文学少女ではなく、漫画とテレビとファッション雑誌を主な情報源として10代を生きてきました。
ネット情報は読んでも、基本的に活字だけの紙媒体を読む習慣がありません。
 
ただ、国語教師と言えば、近代の文豪はもちろんのこと、現代作家についてもこの人が好き、と呼べるくらいに熱中して読んだ作家がいる人が多いです。
(その点で言えば、森絵都さんや江國香織さんの本は好きです。)
 
しかし、漱石、鴎外、太宰、芥川、三島、宮沢賢治……となってくると、とたんに声が小さくなります。
これを、自分の中で「読書コンプレックス」と呼んでいます。
 
 
そんなネガティブ読書家に対して、ポジティブに読書を楽しもうという感覚を取り戻してくれる本が『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』です。
 
すぐに、読めます。
1時間くらいで読みました。
そのくらいにわかりやすい!
 
 
この本を読んでハッとさせられるのは、「本を読まなければならない」義務感が読書の楽しさを失わせるということです。
 
もう少し言うと、「本は熟読しなければならない」「本は多読しなければならない」といった「~なければならない」というプレッシャーが自分自身の中にあることです。
筆者は短くですが、学校教育がこの義務感を多少なりとも作っていると述べます。
このことは否めないと私は思います。
 
本を読め、読めと言われるうちに、自分の本の楽しみ方を忘れてしまうのです。
 
読書とはこうあるべきと思いこんで、本は読みたいのに「消極的読者」になっていくという構造、みなさんの周りにはありませんか。
 
 
ただし、筆者も述べていますが、自分の好みのジャンルに偏った読書で終わることはもったいないことだとも思います。
 
心地よい自分スタイルの読書習慣を身に付けつつ、自分が苦手な本も手にして「なぜ私はこの本と相性が悪いのだろう」と考えるのは、自分を知ることになります。
その点については、自分の価値観を広げる読書の価値を知った上で、大切にしたい考え方だと思っています。
 
最後に、前回の論文生産術もそうでしたが、この本も「読書習慣定着メソッド」とうたっているだけあって、具体的に生活のどの時間にどのように読書を位置づけるかを提案しています。
読書も執筆も、ご飯を食べたり歯を磨いたりするように、生活の固定された時間に習慣化すると、自分にとって豊かな毎日が刻まれていくのではないでしょうか。
 
細かな疑問はあれど、本を読んで書かなければならない時期を過ごしているにもかかわらず「消極的読者」になっている人は、この本が生活の励みになるなと思います。