放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

ソフトボール大会と伝統と。

18日は教育研究科全体のソフトボール大会だった。

個人研究が主となる大学院で、コースがチームとしてまとまる唯一の行事だ。

 

この日まで準備に時間をそそいできた運営側は、やりきった感があるだろう。こういう行事は運営側にいるほど、学ぶことが多い。人を動かすことの難しさとうまくいったことの喜びは計れない。

 

一方で、色々な葛藤がある。終わったあとで、学校独自の行事について話題が移った。

 

伝統と呼ばれるものを大きく変えることはなかなか難しい。しかし、価値観が変わって行く中で、行事を通して得られるものの質も変わってきているのではないか。

 

バンドでさえ、演奏しないという選択をして、見にきている人を楽しませるという目的をはたすような時流だ。

 

昨日までの筋肉痛を共有し合うとともに、もっと楽にできることがあるのではないか、とも思う。

 

自分が自分の先生になるには「観点」が必要だ?―「調べ学習」から学ぶ編―

昨日の1冊はこれ。

千葉県の小学校での実践です。図書館資料を活用して調べ学習を行う実践です。

自己教育力を育てる調べ学習の指導―資料利用からレポートの書かせ方、発表まで

自己教育力を育てる調べ学習の指導―資料利用からレポートの書かせ方、発表まで

 

1989年~1991年(平成3年)までの実践が紹介されています。

総合的な学習の時間が本格実施される10年前です。

 

【参考】学習指導要領の変遷 - 文部科学省

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/004/siryo/__icsFiles/afieldfile/2011/04/14/1303377_1_1.pdf#search=%27%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%8C%87%E5%B0%8E%E8%A6%81%E9%A0%98+%E6%94%B9%E8%A8%82%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%27

 

 「自己教育力」つまり「主体的学習態度」の育成については、これまでの教育史本を読んでいくと、いつの時代でもキーワードとして出てくるものです。

 筆者も学習指導要領の改訂に合わせて次のように位置づけています。

  今回(平成元年)の教育課程改定の基本観点は、『学習指導要領』の第1章・総則、第1・教育課程編成の一般方針、①の後半に示されている。

 

  学校の教育活動を進めるにあたっては、自ら学ぶ意欲と社会の変化に 主体的に対応できる能力の育成を図るとともに、基礎的・基本的な内容の指導を徹底し、個性を生かす教育の充実に努めなければならない。

 

 調べ学習は、上記のうち、「自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる能力の育成を図る」に対応した内容である。いわゆる「自学能力の育成」といわれている実践の1つである。

 ここでは「自学能力」とも表現されています。

このあたりの用語の違いは整理する必要があるかと思いますが、ひとまず、ここでの「自学能力」は次のように説明されていきます。

①計画性

 課題を自ら設定し、まとめまでの見通しを持って調べていく能力。ただし、脱線や変更はあってもよい。脱線とは、調べていく過程で、主題からそれた内容まで調べ進めてしまうことである。

②積極性

 課題に対して学習方法を自分で見い出し、能動的に学んでいこうとする意欲である。

③持続集中力

 自分の考えを計画に従って、断続的であっても学習に集中し、それを持続させていく力。

④丹念性

 資料をじっくりていねいに読み、問題を細かいところまで追究し、深く考える力。

 ここを読むと「自ら学ぶ力」の具体的要素をどのように定義するかがまだ自分の中では曖昧であることがわかるのですが、筆者は4点に整理しており、調べ学習を通しての学習者の変化もこの4つの観点から見取っています。

 

 それと同時に、現時点で私の考える「自分が自分の先生になる」という発想のメインは、調べた後にあることに気づかされます。

 さらなる課題を発見するために、自分の学びをメタ認知する力、とでも言いましょうか。「調べ―考え―書き―発表する」の先の「ふり返り」がメインなのですね。この「ふり返り」という言葉がこの本では出てこないのです。

 

 そういう意味では、私の数少ない現場の実感としての感想だとわかっていて述べますが、「課題―活動―振り返り」の流れは教室に浸透しているなと思います。平成10~11年の学習指導要領改訂以降、「発表して終わり」に対する課題意識が芽生えて、そこで「何を学んだのか」学力観に関する問題意識が発生してくる流れが見えてきます。

 

 「何をいまさら」と思う先生もいるかもしれませんが、私は昨年までの学級で総合的な学習の時間の学びについて、観点と評価でとても悩んだ経験があります。

 この調べ学習実践を見ても、大村はま実践を見ても、共通して「観点」の重要性をとても感じます。同じように「ふり返り」についても「観点」がやはり重視されることになるのでしょうか。

 

今日はここまで。

DADAISM

DADAISM

 

実践と分析はどこまで寄り添えるのか。

過去の教育実践演習で作成された指導内容と分析を読んでいる。

ペアで1冊読むという設定だ。

これはとても機能していて、

一人でやろうとすれば事前の動きが見えないものだが、

ペアでレポート作成しようとすると役割分担も生まれるし、

お互いに解釈を確認することができる。

私もレポートの細かなことから読み取り方まで一緒にレポートを作成しながら学んでいる。

 

前段が長くなってしまった。

その実践内容と分析をたどっていく演習には

これから自分たちが行う実践と分析を見通す意図もある。

そのことを意識しているからか、私たちのこの演習に対する話題は

  • 目標を達成するための実践方法が妥当か
  • 分析結果は十分になされているのか
  • 実践に対する分析は本当にこれでいいのか

ということになる。

手厳しいストレートマスターの指摘に現職教員の内心はとてもハラハラする(苦笑)。

 

これまでの研修を振り返ると、十分な分析・検証はとてもじゃないが、できていない。

では、どうしたらできるだろうか。

何をどのように行うことができるのだろうか。

私の問題意識はそこに置いてある。

 

実際にこれまでの演習の実践を見ていくと、年度によっては実践が充実しているのに分析が甘かったり、「もう少しこんな視点で分析できたのではないか」という疑問が自然とわき出てくる。

例えば、プロトコル分析(主に発話の文字起こしをして分析する方法)は人と時間のなせる技という側面もあるけれど、教員と学習者の関係性を読み解く有効な材料になる。学習者の内的変化の過程も、細かく分類していくと見えてくるものがある。

 

ただ、実践を通すと、徐々に最初の目的と離れていくことになったり、

見落としてしまった部分があったり、主観的解釈で終わってしまったりと、課題が見えてくる。

もっと別な分析方法はないだろうか。考えたくなる。

 

授業分析の視点はこれまであまり真剣に考えてこなかった。

これから考えることはたくさんありそうだ。

 

 

 

 今日はこれを聴きながら。どこから聴いても素敵です。

Ost: La La Land

Ost: La La Land

 

 

子どもの事実を受け取る。

昨日の午前中は文京区でこれ。

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午後に大村はま研究で敬愛するお友達に会ってノートを見せたのだけれども、

このタイトルだけで、「私は行きたくないなぁ」とはっきり言われる(笑)。

そうか、わたしは「学習指導要領」に対して知ろうとする気持ちがあるのだなと思う。

あくまでもその子との比較だけれど……。

 

彼女の初めての掲載論文を軽く見せてもらって、とても刺激を受けた。

そして午前中の知ったことと関連付けるとするならば、

「子どもの事実」というキーワードが浮きあがってきた。

 

それで、「子どもの事実」という観点で私が教室で何をしていたのかを振り返ってみると、

  • ふり返りジャーナル
  • 授業記録
  • パーソナルポートフォリオ
  • 個人面談
  • 日常の観察、
  • 他の先生との情報交流。

こんなところだろうか。

ただ、昨日話を聞いていて思ったことは、子どもの事実を知ることは、もっと繊細で細やかな作業だということだ。

特に、授業中や休み時間のポロっとこぼれた発言なんかに、重要なことが隠されていたりするわけである。

それらをどのように受け取り、どのように返すのかが問われる。

 

「おもしろいねぇ~どうしてそう思うの?」

「すばらしい発想ね。もう少し詳しく話せる?」

 

子どもの事実を知ることは、表面上の何かを知ることだけで終わらない。

どんな生活背景があるのか、私たちがちょっとした言動から知ろうとする日頃からのアンテナの高さが必要となる。

 

しかし、「知ろう知ろう」と前のめりになっているとできない。

自分という存在が自然と相手にも受け入れられるようになって、

相手は安心して自分を表現できるようになっていく。

 

だから、まずは教師サイドが子どもたちに自分を知ってもらい、

「この人なら大丈夫だ」

という安心感を持ってもらうことが大切なのだろう。

そして、その子どもたちがわたしを確かめるように出してきた「自分」をどのように受け止めるかで、わたしとその子の学びの関係性は決まってくるのだろうな、と思う。

休む日は休む。

体はさほど疲れていないけれど、脳はあれこれ考えて疲れ切っている。

昨日は、何も考えず、ただただゆっくり起きて、おいしいものを食べることだけをした。

 

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そんな日も必要。

今日は東京。

 

先生は街にあふれている。

昨日、少し髪を切った。

 

卒業担任になると、願掛けをして髪を伸ばす私なのですが、卒業生を送り出してからはすっかり軽くなりました。

 

引っ越してからの美容室選びはなかなか決断が重要で、美容師さんによって合う合わないがあります。

 

今回は大学から歩いていける距離にたくさん美容室があり、なおさら選択が困難でした。

その中でも、親子連れが入りやすそうな美容室を選んでみました。子どもと一緒に髪を切りに来るお母さんのための憩いの場です。お母さんたちの日常があります。

 

私の担当の美容師さんは、初めから美容師を目指した訳ではなく、紆余曲折あって美容学校に通い美容師になったそうです。そして、自分の店を持つという明確な目標を設定し、実際にその目標を達成したのでした。

 

いつからでも学べるし、いつからでもリスタートできる。

短い髪を切るには少ない時間なのに、素敵なことばがたくさん出てきます。ここに決めよう、初回で思いました。

 

昨日は甥っ子姪っ子へ、叔母の立場からみた教育の話でした。子どもたちの行動を見て、

「あー…これは将来困ることがありそうだな」

そう思うことは、機会を見て相手に伝えるそうです。学校教育でもない、家庭教育でもない……身内教育とでも言いましょうか。

 

そう言えば、今まさにその単元を扱っている先生もいらっしゃるでしょう、光村図書2年掲載の小説に「アイスプラネット」というのがあります。

この小説には、主人公の少年に影響を与える叔父が出てきます。その話に似ているのですね。

 

子どもたちはどれだけ意識しているかわかりませんが、こんな風にして先生や親だけではない第三者が、あの子の将来身につけるべき力をつけることはあるのです。

 

髪を切ってもらいながら、ぜひ教室で、子どもたちにも話してほしいな、と心に描くのでした。

 

先生は街にあふれています。

 

 

 

 

 

 

 

全世界公開できない理由。

今日はなんだか書こうという気持ちになりません。

 

理由① 大学院での学びを全公開することはできない。

 

学部の授業を受けようとすると、1授業15000円支払わなければならない?そうです。

私自身は、誰もが全世界に発信できるようになった今、

すべての情報は共有されるものとしてとらえている部分が多いです。

しかし、知の集積である書籍を取ってみても、

対価として支払われるお金が発生するのも事実です。

大学院だって、学費を払っているからこそ

私たちは学ぶ場を得ているわけです。

それをすべてオープンにすることに対して、やはり慎重にならざるを得ません。

 

 

理由② 体系的なことを知らずして、何を語れよう。

 

sclo.hatenablog.com

この記事、グサッときました。

情報に対するマナーと言っていいのかな、

このようなことはもうすでにさまざまな議論がされています。

そういうことを土台として、知らない自分が安易に発言できないと思うのです。

 

今日は1週間の疲れも出てネガティブ思考です。

 それでも、今日は始まる。

今日も1冊の本を読むところから。