放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

小さな失敗の積み重ねで

年度末に学習記録の冊子をつくるため,年度の始めにプリントを保管するためのクリアファイルを生徒全員に配っている。

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授業で扱ったプリントをすべて保存しておくためにしているのだが,現実問題,必ずと言っていいほど,プリントをファイルごとなくしてしまう人がいる。

そして1回目の冊子づくりの時に,「先生,なくしてしまいました」と申し訳なさそうにやってくる子がいる。

いつもこうなので,プリントをなくしがちなタイプの生徒にはすでに冊子型になっているノートを使うように促し,プリントをノートに張り付けるようにする。

この間は,それもせず,「新しいクリアファイルをもらってもいいですか」と言うので,「これは国語のファイルです。」とテプラでラベルを貼ったクリアファイルをあげた。

喜んでもらった彼は,結局そのファイルを学年末までルール通りに使って冊子を完成させた。

全員が失敗しないためのシステムはいくらでもある。

しかし,失敗を経て,次はどうしたらいいのかを一緒に考えるチャンスがあるってことのほうが,学校らしいんじゃないかと思う。

 

どこの図書館も利用できない。

報道の通り,この1か月は感染症拡大を避けるために,公共施設は休館となった。

www.hokkaido-np.co.jp

 北海道の緊急事態宣言解除後,徐々に機能を取り戻しつつあって,今週から本の返却やインターネットで予約した本を取りに行くことができるようになった。ただし,図書館での閲覧はまだできない。

春休みは文献収集のはずが

 しかし,3月末が学会誌の論文投稿締切が多い大学関係者の方は,後期の授業が終わった2~3月にかけて本格的に論文を仕上げる時期だったに違いない。国会図書館(東京館)も1か月の閉館とあって,文献資料を必要とする研究者の方たちはどうしようもない日々を過ごしていることだろうと想像する。私も修士学生だった時は,3月の春休みは文献収集に最も時間を費やしていた。今年の修士学生の境遇を憂う。

学外者立入禁止

 私自身も,できたらせっかく書いた修士論文なので,部分的に投稿論文として仕上げておきたいと思っていたのだが,3月に入って状況はすっかり変わってしまった。

 まず,大学図書館が学外者の立ち入りを制限することとなる。改めて,大学図書館は学生のための施設であって,一般市民の利用はあくまでもおまけなのだなと思う。現職に戻って研究したいと思う人は少数派なんだな。しかも,私は北海道の大学の卒業者でないことも痛い。

 大学図書館は学生や大学職員が優先して使用するために,閲覧や貸し出しにも制限がある。借りられない資料については,お近くの公共図書館で利用するよう促されるのだ。多くの場合,地域の公共図書館にないから大学図書館に足を運んでいるんですけどね(苦笑)。

 今回は,公共図書館が軒並み休館とあって,そんなことも言っていられないのだけれど,結局感染症拡大を防ぐためには仕方のないことなんだと受け入れるしかない。

情報の地域格差を埋めるデジタル化

 それでも,10年前に比べれば論文の電子化も進んで家にいても見られるものが多くなっているのはありがたい。

 著作権の問題などでなかなか簡単には進まないことはわかっているが,NDLのデジタル文献も,図書館以外で閲覧できるようになったらいいのになって今月は何度も思った。

実現不可能でもいいから、やってみたい野望メモ

合唱コンクール、たくさんの失敗経験を活かして、子供たちが成長して、満足する合唱を創りたい。そのためにできる支援の方法を勉強したい。できたら外部講師の先生に見てもらってフィードバックをもらいたい。

②面談屋としてのキャラを確立する。面談がいやなものにならないように、相手にとって、こんなんならまたやってもいいと思えるようにしたい。

③通信は頑張らない。でも行事のドラマは一人一人の成長の記録になるから大事にしたい。

④リーダー研修のあり方を模索したい。とくに企画立案の話し合いを重視したい。子供たちの表面的な考えではなく、真相に迫る話し合いがしたい。そのためのファシリテーションの技術を子供たちと一緒に学びたい。

⑤身体的活動を学習活動で効果的に活用したい。気負わずに、自然とからだをつかってしなやかに思考できる学びを子どもたちに譲り渡したい。

⑥ICT活用は事前準備に負荷があるので嫌煙してきたが、活動指示程度の説明はパソコン表示で十分だな。その方が、言語活動の時間が確保できるし、活動中の記録も取れる。

⑦学年末に、安心して自分の思うことを思うように安心して表現できる集団になったらいい。

⑧学ぶことは本来楽しいものなんだと気づいてほしい。受験が終わっても、問いがあるかぎり、自然に学びに戻ってくる姿が理想だ。新しい何かを生産し続けることに価値を見出だす学習者を育てたい。答えのない問いに対し、自分なりの学習の成果でもって、一つの見解を示すまでやりきる学習者を育てたい。というか、自分もそうなりたい。

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価値の共有と評価方法

 「主体的に学ぶ力」の評価のあり方について,10年研でも質問があり,勤務校でも先生たちと話題になる。

 
現場では「どうやって」評価したらいいのか,が常に先頭の問いである。大体のことは「どうして」という問いがわかれば解決できると思うのだけれど,実際には明日から「どうするか」だけ考えているようで,なんとも言えない気持ちになる。


学習記録は,単元途中の学習者の成果や困難と向き合うには活用しやすいと思うけれど,総括的評価に活用するには問題もあると思っている。

振り返りを書くことを常態化していくと,生徒によっては安易な慣用句を使用する場面に陥ることもあるし,教師も生徒も互いに効果の薄さを感じてしまって形骸化することもある。実際のパフォーマンスとは別に,振り返りを書くのが上手な子だけが評価されるのも違う。
振り返りや授業感想文を書くことについて,教師と生徒がどういう価値としてとらえるかによって,全然違うものになると思っている。

エンドロールの途中で砂嵐になる。—2月の振り返り

逃げる2月なんて言っている暇もなく,2月は消え去った。

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個人的には人生初のインフルエンザを経験し,中旬以降体調的にずうっと不安定だった。

外出することもできず,世の中も落ち着かない日々。

家にこもることも多く,過剰に不安要素を数え上げるような日も多かった。

 

入試前の授業は生徒も登校したりしなかったりで,全員揃っての授業はほとんどなかった。加えて,インフルエンザによる学年閉鎖や自分の病休も重なって授業をしたのは数えるほどだった。

授業をするにしても,教室内で動き回るには狭く,話し合いをするだけでもためらわれるような気持ちになった。

受験を直前にして,子どもたちの不安も大きくなるようで,プリント学習を選択するしかなかった日もあった。

 

そして,臨時休校。

音もなく,今年度の国語の授業は終わってしまった。

 

生徒のいない学校で,残された学習記録を全員分読み,あとがきにコメントを書いた。

「未来に残したい言葉」も提出してもらっていたので,提出してくれた生徒の分と,提出できなかった生徒の分を空欄にして文集化し,まえがきとあとがきをつけて印刷をした。

あとは卒業式に配っておしまいである。

 

終ってみれば,いろいろと丁寧にやらなければならないこともある。

穏やかに春を迎えようとしている。

 

 

 

授業づくりに関して手にした本(2020年1月)

 これまでに自分も体験しておもしろいと思った授業を、愚直に追試しようと決める。

その一つが看図作文。

看図作文指導要領―「みる」ことを「書く」ことにつなげるレッスン

看図作文指導要領―「みる」ことを「書く」ことにつなげるレッスン

  • 作者:鹿内 信善
  • 出版社/メーカー: 溪水社
  • 発売日: 2010/06
  • メディア: 単行本
 

 鹿内先生の看図作文の模擬授業は何度か体験したことがあって,短時間で創作に没頭できるおもしろい実践だと思っている。

本で紹介されている絵は本当によくつくられていて,自然と「みること」から対話が生まれる。対話をしながら,想像が言語化され,物語が生み出されていく。物語の発見は,そのまま書くことへの意欲となって言語活動へと学習者を誘う。看図作文授業では、作文を書く活動にどんな付加価値を付けるかが課題となる。個人的には、物語の学びと関連した作文の授業が一番面白いと思っている。

実際の授業の中では,運営の仕方に気づきがあった。絵の中に描かれているものを言語化していく際,対話型鑑賞の授業をしている時と同じ展開になっていることに気がついた。

私の中の自由な美術―鑑賞教育で育む力

私の中の自由な美術―鑑賞教育で育む力

  • 作者:上野 行一
  • 発売日: 2011/02/01
  • メディア: 単行本
 

 対話型鑑賞の第一段階で見えるものを答えてもらう時と,看図作文で見えるものを答えてもらうとき,私は同じようにして学習者に問いかけている。黒板には,発言者全員の見えるものが書かれ,みんなの見方を持ち寄って,一枚の絵を言語化する作業をするのだ。

その中で浮かび上がってくる問いに焦点化し,絵の見方を変える分岐に立ったり,物語の視点を変える分岐に立ったりする。

この辺の授業の展開は,子どもたちへの信頼もあって,当然いろんな見方が出てくるだろうとか,問いに対する答えにばらつきがあるだろうとか,おもしろい展開になることが期待できた。

何というか,シナリオ通りにただ進めるだけの授業ではなくて,泳ぐように授業ができるようになったんだな……と単純な言葉だが,自分の成長も感じた。

 

「みること」の研究については,大学院の授業実践演習でも話題になった。広がりを見せつつあることを知り,改めてこの実践の価値を知った。

エンドロールみたいな授業―1月の振り返り

冬休み明け,北海道の1月は短い。

あまり雪もなく,雪道の苦手な私にとっては比較的過ごしやすい冬である。

学校ではインフルエンザの流行が話題となっているが,なんとなく自分には関係のないような気がして過ごす。

今週に入って最近お決まりとなっている喉の不調が見られるが,停滞期を迎えがちな冬もなんとか越すことができそうだ。

 

以下,仕事をしていて気になったこと。

 

〇チャレンジテストが3年生結果入力なしになっていた。

かつて,卒業間際に中3向けの北海道チャレンジテストの配信(結果入力の必要あり)の連絡が来て,入試のバタバタした時に無理やり授業で取り組まなければならず,とても反発を覚えた記憶がある。日常の文脈と乖離したテストに疑問を呈する人が多いけれど,今は配信時期も早くなったし,3年生は入力なしなので気軽に取り組めるようになったなぁと思う。

〇入試直前の授業はどうあるべきなのだろうか。

試験のための授業がこの時期に本当に必要なのか。ずっと問題意識がある。入試対策問題を解きまくる授業が続くことをよしとする生徒もいれば,推薦や私立受験で進路先が決まり勉強へのモチベーションを失う生徒もいる。今年は学習記録を完成させて一旦の中学校国語の授業を終了し,残りを「エンドロールみたいな授業」と言って授業をしている。これまでの国語で学習したことのまとめをしつつも,単発の活動型授業をしている。このメンバーであれこれ言い合いながら学ぶのも,これが最後だね,と思う。

 

 

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