放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

辞書と生活とことばと

日本文学研究の演習で発表するようになって、「解釈」とは何か、ということを考えている。

解釈を書く、ということも、解釈そのものがわからないと書けない。

先人が述べることを読む、という方法もあるのはわかるけれど、自分の体験から自分の考えを作っていくところから始める、これが私のスタイルだと最近思っている。これがいいとか、悪いとかの評価はひとまず置いておき、私の特性がこうであるということは自分で一番はっきりさせておきたい。

 

それで、今どんな体験をしているかというと、作品の古注釈を読み、その比較をしながら本文がどのように理解されていたのか探るということをしている。「どのように理解されているか」ということが解釈なのだとすると、今度は理解と解釈の違いはなんだろう、ということになる。

 

……このあたりまでくると辞書で調べる、という作業が始まっていく。最近はこういうことの繰り返しで、図書館をぐるぐるぐるぐるしている。

しかし、辞書で調べてしまうのは簡単だけれども、自分の体験からことばの意味を考える時間というのも、ことばを自分の生活の中に取り込む意味で必要なことだと思う。

私は辞書引き学習を国語科授業で大切にしてきたけれども、授業時間よりももっともっと大きい生活の中で、ことばがどのように理解し、認識されているのかということをもっともっと学べる授業を作ろうと思う。