放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

テストの負荷を体験する。

一つの試験が終わりました。

評価は試験だけでなく、出席やコメントも加味されているのですが、

学習者にとってテストはこんなにも心的負荷がかかるものなのか

と改めて思いました。

 

一方で、「勉強」しながら授業では気づかなかったことを

テキストを読み直すことで改めて知ることもありました。

自分のペースで学習することと、

専門家から話を聞くことのバランスは

学びの上で大切なことなのだなぁ、と素朴に思います。

答えの定まらない問いを持ち続けられるか。

昨日はこの本を読んでいました。 

特に注目して読んだのは、なぜ、これまで以上に人材育成に注目されるようになったのか、です。

この本では3つの制度や環境がバブル崩壊までの日本社会での若手育成を促していたことを指摘しています。

その、職場で成長するための条件は以下の3つです。

  1. 一つの職についたら、ずっと働き続けられること(長期雇用)。
  2. 職場では経験豊かな先輩が上の立場であり続けること(年功序列)。
  3. 社宅があったり、アフター5があったり、職場の人と一緒にいる時間が長いこと(タイトな職場関係)。

教員の職場環境も同じことが当てはまると思います。

1の雇用形態については、一度採用になれば今のところ多くの人が長く勤められることになっていますが、

実際には臨時採用の先生や時間講師の先生が当たり前に担任を持つことが珍しくないですし、採用されたら「ずっと働き続けられる」というのも、この先はわからないと私は思っています。

2と3はもうすでに変わってしまったものだと、思っています。

 

そんな中で、昨日は東京学芸大学附属高等学校の公開研究会に参加してきました。

先週の演習で「ルーブリック評価」が話題となり、

実践に興味を持ったストレートマスターの子と授業を見ることになりました。

偶然にも「ジグソー法」についての話題も上がっていて、

今回の公開授業はそのことについても触れられていました。

 

ただ、実際に授業を見ることになって思うのは、

そういった教師側で用意した外側の「何か」がどうか、よりも

その中で学習者が実際にどうだったのか、が検討されるべきなのだ、

ということです。

 

私が特に気になったのは、話し合いの途中での先生と生徒のやり取りです。

自分たちの班の考えを先生に伝え、生徒は先生の反応を伺っています。

先生からの発言を受け取って、生徒が言ったのは

「なんか、ちがうっぽいね。『他のことも考えろ』ってことか…」でした。

私もその班のメンバーだったら、同じことを思うだろうなと思いました。

「答えは一つじゃない」話し合いだったわけなのですが、

生徒の思考は一つの答えを求める方向に向いているなぁと思いました。

 

授業の後で、院生の子と話をしながら、

私たち自身も、結論を出してしまいたい思いから

一つの答えを求めてしまう思考があることを確認しました。

 

一つの価値観で働き続けられる安定した社会ではない、

そういう認識に立っているはずなのに、

それでも実際の場では、正解を求めてさまよっているのですね。

 

その時々で考えた答えを出すことは大事だし、

それを他者の意見を聞いてもう一度考えなおすことも理想です。

ただ、そういう往復した思考ではなくて、

単線的にこれ、と決めつけてしまうことが浅い思考なのだと思います。

 

「その思考だけではこれからは難しいよね」

「教師自身の考え方が変わらないことには始まらないなあ」

 

そんなことを思った1日でした。

 

対話とからだの向き

少数でも一定の集団があるっていいことだな、と最近思う。

 

考えの違う者の集まりは時に勘違いや衝突を起こすことはあるけれど、

自分が落ち着いていられる場所があるということはとても居心地がいいものだ。

日常的に他愛もない話で笑いあったり、冗談を言い合ったり、

そういうことをしているうちに、感覚的に相手への緊張した心がなくなり、

聞きたいことをスムーズに聞ける関係ができていく。

 

昨日、研究室で調べものをしていた時に、

ふとやってきた院生が私の方にからだを向けて話していた。

椅子の脚を回して楽しそうに私に向けて話をしている。

 

なんだかその距離感とからだの向け方、こころの開き方が

とてもしなやかで、印象に残ったのだった。

 

試験期間が始まる。

来週は春学期の期末試験期間です。

筑波大学は春学期がABCの3期間に分かれており、

ちょうど今はABが終わる時期になります。

それに伴いそれぞれの授業の評価時期に差し掛かるわけです。

 

大学院なのでそれほど基礎教養の授業は少なく、

専門科目の内容は演習形式が多いです。

この期間だけのために復習をするというよりは、

自分の割り当てられた調査発表の時期に向けて準備することが多いため、

実際にこの期間に試験があるのは私の場合2つの授業だけです。

 

どうしても履修生が多い科目は評価もテスト形式になるため、

私もテスト用に知識の整理を行っておく必要があります。

久々の「テスト勉強」です。

前日徹夜…なんてことにならないように今から授業の復習をしていますが、

大事なのは「要約」なのだなと思います。

 

約10週分の授業を資料から思い出しながら、

情報の重要度を読み取っていく作業が私にとってのテスト勉強です。

大まかな授業のあらすじを頭の中に入れ、

そこから細かな情報をピックアップする、という過程になります。

知識をインプットするためには、その知識の背景にあるストーリーと関連付けて

トーリーの中での情報として覚える方法ですね。

トーリー型勉強法?と言えますか。

 

とにかく、学び方、情報収集の仕方には、いろいろあり、

自分はどのようについて学び、情報を整理していっているのか

改めて自分がどの方法を選択しているのか考えさせられます。

 

以下は今学期の授業で教科書として使った本たち。

〈つながり〉の社会教育・生涯学習: 持続可能な社会を支える学び

〈つながり〉の社会教育・生涯学習: 持続可能な社会を支える学び

 
よくわかる学校心理学 (やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)

よくわかる学校心理学 (やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)

 
学校教育と心理教育的援助サービスの創造 (講座現代学校教育の高度化)

学校教育と心理教育的援助サービスの創造 (講座現代学校教育の高度化)

 

 

 

今あなたが言っていることは誰が言ったことなのか。

これまで教育書を読むことはありましたが、

最近は論文を読む機会が増えてきました。

ゼミにも2回参加するようになって、

先輩方の姿を見ながらアカデミックにおける”お作法”を学んでいます。

 

そこで、一番気になるのが、先行研究の扱いです。

私も今はインプットの時間が多い日々ですが、

なんとなく自分でわかった気になってしまい、

気づくと「自分が言った」かのように理解してしまうことがあります。

 

しかし、○○氏が(●●●●年)の論文で「~~~」と述べた、

ということと、自分はどのように考えるのかというのは

切り離して区別して話すことが論文の前提にはあります。

 

今に始まったことではないですが、

パソコンが普及して論文の入手方法も手軽になり、

研究倫理を意識的に持ちながら情報にあたらなければならない空気があります。

 

学問に対する謙虚さを持ちながら、

自分なりの見方を獲得する楽しさを持ち続けたいものです。

「わからない」こそ掘り下げる価値あり。

授業を受けていても、ついつい、正解を探しながら思考している自分がいます。

しかし、白か黒か、どちらかに分けられない問題が山積しているのが世の中です。

グレーの濃淡を知ることの方が大事で、自分の考えはどのあたりにあるのか、

その微妙なところを論理的につきつめていくと、何か見えてくるものがあります。

 

自戒も込めて、「わかりやすい」ことは安定していて情緒的にも安心しますが、

「わかりやすさ」のために切り捨てられているものに自覚的でなければなりません。

論文執筆の過程では、図や表に分類して研究の位置づけを試みようとすることがよくありますが、○か×かの2項対立軸だけでは見えてこないことも多いなと感じています。

 

また、研究には「わからない」からこそ取り組む価値があることも再認識しています。

自分である程度見通しが見えているようなことなんて、

もうすでに誰かがまとめているものばかりです。

自分でも「なぜ?」「どうしたらいいのだ?」という問いの集合から研究はスタートしていくのだと、

修士論文と向きあう中で改めて感じているところです。

 

切り花の美しさにも限りがあります。

f:id:keynotemako:20170621033241j:image

それよりも、土を耕し、種を植え、懇切丁寧に手を加えた植物の方が

どんな花を咲かせるのか楽しみがあります。

そして、長く楽しめる可能性もありますよね。

「流動」という使いやすい言葉について。

「流動」とは、物事が状況に応じて移り変わることです。

経済学について疎いですが、特にそこで使われるのを見聞きしたことがあります。

 

経済学で使われる言葉としては別の文脈になってしまうかもしれませんが、

今年3月の離任式では、古典教材の暗唱授業を思い起こしながら、

いろいろなことは絶えず変わっていくことを話しました。

 

また、昨日の大学の授業では、「若者支援」をキーワードに

社会構造の変化について、授業者一人一人の考えを聞き合いました。

私は家族観の変化について話したのですが、

その際に「流動的」と、自然と言葉にしていた自分に気づきました。

「当たり前」が変わっていることを考えることが大切だと思っていて、

自分の見方も、やはりひとところには置いておけない気持ちを強くしているのだなと思います。

 

ただし「流動的」はとても使いやすい言葉で、

そこで話を止めると「で?結局どうするの?」となってしまいます。

立ち止まって一つのあり方の価値を捉えることもまた大切なことで、

その際には、大きな流れの中でのあり方と共に見ることが理想なのだと私は思います。

先の家族観についても、「変化している」というのは、いつの時代と比べてなのか、

そういった知識の上で話せないといけないのです。

数十年では足りなくて、もっと長い歴史の中で考えるとよさそうです。

 

理想論ではありますが、ひとまず今考えていることを書いておきます。

 

今日は筑波大学附属小学校で公開授業研究会が行われます。