放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

読書とは何か?なぜ必要か?仕事をしながらいかに読書する?

昨日は東京文京区の林野会館で日本読書学会に参加する。

日本読書学会 - NetCommons学会パック

 

愛知からの帰りだったので少し多動だなぁと内省しつつ、

修士の方たちの発表もある学会なので、ゆっくりとお話を聞けたように思う。

 

読書というと、子どもたちの読書活動を思い浮かべてしまい、学校図書館の運営や多読を促す活動が注目されがちである。

特に絵本の読み聞かせが学級担任をはじめ、学校司書、ボランティアの方たちの手で行われている。何かの記録に残らなくても、裾野は広がっているのではないか。少なくとも、私はそういうコミュニティの中にいる。

 

しかし、最も強く思うのは、教師自身が読書しているか、ということだ。

実際、休み時間に何気なく博士課程の方と「娯楽読書してないですねぇ」という会話になる。

それでもそういう問題意識にあるうちは、自分から気になる本を手にして読もうと思うものだが、その問題意識にすら立たない人もいるだろう。今はテレビ、ネット、SNS…時間があれば楽しめる媒体が多様にある。情報は簡単に手許にある。それを読むだけでも1日は簡単に過ぎ去っていく。それは「読もう」いう意思の持った行為ではなく、ただ単に自分の感覚に入ってくる情報を受け取っているだけの受け身の読書だ。意識して読もうとしない限り、自分から情報と向き合う読書の時間は生まれない。 

 

実際に読書を通して育まれる情緒的・社会的側面など、先行研究にもたくさん触れながら、私は大人自身が働きながら読む読書に関心があるのだな、と思う1日だった。こんな私でさえ「どうやって本を選んでるんですか」「どのくらいのペースで本を読んでるんですか」と、修士院生に聞かれるくらいだから、もう少し言葉を扱う職業にある自分は意識して読書と向き合わなければならない。と、まぁ、最終的には、落ち着くところに落ち着く。

 

ちなみに、昨日の雑談の中で話題になった本があった。 他者と一つの本について語り合えるのは、とても楽しい。そういう教員集団が素敵だなぁと思う。

書くことについて (小学館文庫)

書くことについて (小学館文庫)

 

授業の何を見るか。

言語技術のイメージは、「表現技法」とか「文章構成」とか、

指導事項を明確にしてそれらを授業でどのように扱っていくか、

という議論が展開されるイメージだった。

確かに、議論の中で語句の定義に触れている場面もあった。

 

しかし、最初のインストラクションでも、

「誰の」技術なのか、という問題提起があり、

指導事項が何か、だけではなくて教師の言語技術そのものを問う、

そういう1日だったと思う。

 

そのため、小学生を前にした授業では

子どもたちがどのように言語技術を学ぶか、という視点、

教師が何をどのように問うのか、という視点、両方があったと思う。

 

私は教師が何を見て授業が展開されていったかに興味があった。

目の前で起きることをどう評価し、次にどうしていったのか。

発問と指示、教師と児童のやり取りで進んでいく30分の授業を見ながら

今の私は、声の大きさとか、体の動きとか、

子どもたちの非言語の反応が気になるなと思った。

そして先生がその瞬間どこを見て、

どのように受け止めているのかも知りたかった。

 

 

 

 

今日の学びの目的は何か。

今日は日本言語技術教育学会で愛知です。

http://www.kokuchpro.com/event/5afb8d257a3b4038d6ec8dbfa92a2e09/

 

参加の目的は、行ったことないから、です。

好奇心です。はい。単純ですね。

 

現会長である大内善一先生の『国語科教材分析の観点と方法』を取り出すと、

2012年から3回に渡って読んだ形跡が残されていました。

わかるところ・わからないところのメモがあります。

 

そうやって、本を読んでわかることと、

話を聞いてわかること・実感することは違うものです。

また、「いま」は何を思考しているのかも違うことでしょう。

 

そういった違いを知りたいと思うから、

私は今、名古屋に向かっているのだと思います。

なぜ学習記録を作るのか。

1 学びが消費されて、そこから何か生産されている実感がないから。

2 学びの蓄積の実感がないから。

3 学びの総合化(体系化?統合?)が弱点だと感じるから。

4 自分で考え言語化する力をつけたいから。

5自分の学びの歴史を見える化したいから。

6紙の重さで目に見えない学びの量を体感できるから。

7記録を編集することで何をしたのかもう一度学習する機会になるから。

8そもそもアルバムや日記など記録することが好きだから。

9過去の自分が言っていることを知ることができるから。

10記録を残し続けることで自分の変容を知ることができるから。

協同で授業を創る効果(教材研究編)

わたしの実感として、です。

  • 合意形成を取ろうとすると、必然的に他者の話を聞くことになる。
  • 自分と他者との感覚の違いがわかってくる。
  • 目的が定まっていれば、教材選択の拡散が起こる。
  • 予期せぬ教材との出会いが生じる。
  • その教材をどう受け止めるか、多様な考えに触れることになる。
  • 何に価値を見出すか、考えることになる。

分けることのわかりやすさ。

最近、「分けること」について考える。

国語の授業で、話す、聞く、読む、書く…と分けることや、

文法の授業で、品詞を分けること、など……。

論文を見ていて、類型に隙が見えてしまうこともある。

 

分けることは、わかりやすくすることで、

物事の本質とは離れることを覚悟しなければならない。

特に言葉というものは、科学的に分類しようとしても、

その体系は大きすぎて一人の人間に負えるものではないし、

時間と共に絶えず変わっていく。

しかし、私たちはついつい、分けられたものを見て、

そこにフォーカスが置かれっぱなしになってしまう。

 

それはやはり、分けることで、物事がわかりやすくなるからだ。

今起こっている問題も、小分けにして原因を分類すると、

解決できることが少しずつ見えてくる。

自分に起因するものは自分でなんとかすればいいし、

自分にはどうしようもない問題はとりあえず保留すればいい。

すると、次にどうするかの行動が見えてくる。

分けることは、認識を促進する。

次の行動を生み出すために必要な思考の一つと言える。

 

だから、分けることがわかりやすさにつながる。

「今日は書くことの授業です」と言えば、「書くことをするのね」と共通理解できる。

今日のところは話すこと聞くこと読むことの学習はさておき、書くことの学習をする、と重点が置かれる。

ただ、それは重点が置かれるだけなのだけれど、私たちは分けて考えることで次の行動がわかりやすくなる。

 

そもそも授業という時間も50分という区切りで行っているけれど、

学びは50分で収まるのが絶対的かと問えば、そんなことはないだろう。

ただ、50分であることで見通しが持てたり、その中で学ぶことが明確になったりする。他の予定が立てやすくなる。

分けることでわかりやすくなり、わかりやすさは学びやすさを生む。

 

それはいいことなのだけれど、

元をたどれば、やはり分けられないのが本来の姿だ。

いろいろな試行錯誤があって、どのように分けるのが適当か、

その選択肢の中で最も適当なものを選んだ、ということが多いだろう。

 

だから、敏感な学習者がその分けられなさに気づいた時に、

どのように教師が対応できるのか、

どうしてそのように分けたのか、

原理を知らないと説明はつかないのではないだろうか。

 

分けることでわかりやすさを生み出すと同時に、説明のつかない例外を生む。

わかりやすいことと表裏一体でわかりにくいことがある。

 

 

 

中学校は、夏季休業開始。

本州はもちろん、北海道でも多くの公立学校で夏季休業を迎えている。

知り合いの先生から便りが届くのを見て、それを実感する。

大学院は必修の授業が山場を迎えていて、あと2週間は気を抜けない。

でも、先が見えてきたところで、そろそろ私も夏モードに切り替えたいなと思う。