放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

先行研究のお勉強

 大村はま「学習記録」生成時期の教育をめぐって、文献にあたる。授業づくりと学習者の関係をどのように見ているか、記録をどのように価値づけているか、読む。

 

解説 国語単元学習

解説 国語単元学習

 

 

 

図説小学校指導技術基礎講座〈6〉掲示・展示 (1981年)

図説小学校指導技術基礎講座〈6〉掲示・展示 (1981年)

 

 

 

内なるものを知ろうとすること

 

 


「さまざまな質問に答える」

P76
問 学習記録の一ばんのねらいは何ですか。
答 書くことの基本的な力を養うことです。書き方、よい文章、そういうものを載せている土台作りといったらよいかと思います。よく言われることばでいえば、筆不精をなくすことです。私の妙な言い方をお許しいただけるなら、心を文字にすることです。
(中略)
 子どもは、学習を―その力も努力も―確かに見てもらっているという安らぎがあると思います。もちろん、子どもたちはそのような表現はできませんし、言ってみせても、そんなものかなと思うくらいだろうと思いますが。
 指導者としては、子どもの学習に肉迫するような実感があります。どんな力がどうなっているか、その力をとりまく本人の内のもの、それが先方から教えてくれるかのようにわかるので、やはり何か安らぎが出てきます。(略)
 私としては、学習記録を見ることなしの指導は、ちょっと考えられないのです。教材を一つ選ぶにも、ひと言ほめるのも注意するのにも、たじろぎそうな気がします。
 ですから、学習記録から得ている大きなものは、この両方の安らぎではないかと思います。

* * * * *


子どもたちの内なるものが教えてくれるかのようにわかる、というところに、振り返りジャーナルの「チャンネル」要素との共通性が感じられる。

授業においては学習記録、学級においては振り返りジャーナルから得ている大きなことがあった。子どもたちとつながるツールはもちろんそれだけではないけれど、人のことはわからないからこそ、少しでも心の内を言葉にする活動を続け、その一つ一つの言葉と向き合っていくということを私は大切にしたいと思う。

自分自身の実践への評価

学習記録のラベリングをする。

すべてのラベルを貼り終わって「ああ、こんな授業もしていたんだな」と、やはり思い出す。子どもたちもこんな感じなんだろうか。人は忘れていく生き物だ。記録がなければ、なくなってしまう。書き残すこと。それは、未来の自分に対しての贈り物なのだ。
今一度、「『記録』の価値を問い直せ」と思う。

 

疑問に思ったことは、「これは、自己満足で終わらないか」ということだ。ラベリングをすべて終わった瞬間、ある種の達成感がある。全てのプリントの束を見て、重さを感じて、自分はこれだけのものを残した、という満足感が残る。その「感」だけで、いいのだろうか。いや、「感」だけでは「学習」記録とは言えないのだろう。

もちろん、学習に対する自分への肯定感を大切にしたい。自分への肯定感を養うことも学習記録作りの目的の1つだろう。しかし、学んだことの言語化こそが最も重視されるべきだと私は思う。記録は活動であって、本質は学習にあると思う。学びを自分のものにするために学習記録はあると思う。

 

その点から考えていくと、私が生徒にさせていることは、ただの活動にすぎないのだと思う。「学習」としては、機能していない。本質をもっと提示し、語らねばならないのだろう。

1年間の授業資料を綴じる。

 


気付いたこと
1.10月以降の資料が充実している。つまり、学校祭以降は自分の授業が言語活動(主に作文)に比重が移っていったということか。
2.子どもたちの学習記録はノート+テスト類が入るので、これとはまた別種のものだなぁ。
3.綴じるだけでも大変…。ここから学びの言語化って、なかなか学びの体力がいる作業だよな。途中で挫折しちゃう。
4.記録(ポートフォリオ)は見返してこそ、価値がある。見返すことが大事。

誰に向かって書くか

今日はお勉強の1日。ノート、ワークシート、ポートフォリオ、eポートフォリオ、振り返りシート、自己評価シート……学習者の学びのプロセスを記録する媒体について先行研究をローラーする。

 

最近は、教室の風景や学校をめぐる人たちの姿が描けなくなっているなあと思う。

だからこそ、やりがいがある

生徒の記述の扱いには十分気を付けて研究していかなければならない。

個人の記述を公開することに難しい側面があることは、公開する立場になってつくづく実感するところである。

でも、実態を共有することなしに実践は進展していかない。

難しい側面があるからこそ、それを乗り越える手腕を身につける必要がある。

 

質を高めること

自分に十分な評価の目が育っていないという課題は教員になってからずっと持ち続けていることだ。どうしたら質を高められるのか、という問いは常にある。

一方で、その質を見定める指標は真に正しいものなのか、という問いもある。教師が持ち合わせる基準よりももっともっと高い可能性を持った学習者を前に、教師の評価はその可能性をつぶしてしまうことにならないのだろうか。

質を高めることと、新しく創造することがどの場面でも対立するとは思わないが、授業をする、教える、指導する…といった場面を思うと、どのくらいの立ち位置であるべきなのか、迷うばかりである。

記録を読み返す

今日は先行研究の文献に目を通し、引用する箇所に付箋をつけて、パソコンで入力し、その後で自分の考えに沿ってまとめ…という作業を繰り返した。

こういう作業は時間がかかる。あっという間に1日が終わってしまった。

問いがすっきりしない。自分でも思い付きでその時その時で考えが変わってしまっていることに気付く。そのための記録ではないか、何度も過去の自分に立ち戻って問いを立て直すことが大切じゃないか、記録は読み返すことが大事なのだよなと思う。

 

今日の最高気温は28度。日中の日差しが部屋を暖め、この時間も部屋に熱が残されている。