放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

作業の一日

4年前の資料を整理する。

学習記録づくりと同じく、分類をして、ラベルをつけて、目次をつくる。

1年間に授業で使った資料は5cmくらいの紙の厚さとなる。

その時その時に走り書きしたメモをもう一度見つめながら、今日は全体的なことを少し考えた。

小さな付箋にメモを取りながら、ウォールポケットに張り付けていく。それを眺めながら、またひとり考える。

学びを積み重ねるために

体力が必要だなぁと思う。

日頃から運動不足のわたしはもちろん肉体的な体力も切実な問題なのだが、考える方の体力(持続力?)も厳しいなぁと思う。

少し自分の学びをふりかえってみると、アウトプットの次のインプットが継続できないなぁという感じがある。レポートを書いたり、発表したりするのだけれど、その先にまた積み重ねるインプットが続かない。

そもそも学習記録の研究も、個人的な動機をキーワードで言えば、「蓄積」や「継続」という言葉で表現できる。単線的に「次へ」と進む授業、気づいたら何を学んだのだろうと見失う学び。少しでも学びを拾い集め、自分の学びを可視化できることへの期待から学習記録の実践が始まったのだった。拡散的で、思いつきの行動が多い自分の問題意識と学習記録は結びついているのだなと思う。

締切を設けると動き出すけれど…

今日は久しぶりの大学院授業だった。

「授業が〇時からなので、それまでにこの仕事を終わらせよう」とリミット意識を持つと仕事がはかどる。時間制限を使いこなすことは効率的な仕事術の一つだと思う。行動していると、ふと次のアイディアも浮かんでくるもので、相乗効果で別の仕事にもとりかかれたりする。

気をつけなくちゃなぁと思うのは、タスク処理にぐっと意識が向けられることで、ゆったりと考える時間が失われていることだ。テスト前「だけ」勉強のように、無理にその時間だけエネルギーを一局集中しているうちは習慣として継続することは難しいなと思う。行動の意義を自分の中に持つことが、継続の力になるのだと思う。だけど、実際に自分の授業を思い出してみると、いかに限られた時間の中でエネルギーを出して頑張らせる活動の多いことか……。

時間を限定することで生まれるエネルギーも必要だなと思うけれど、なぜそれをするのか?と問えることのほうがずっと大切だと思う。常に何らかの結果を残さなければならないような環境は、ちょっとつらいな、と思う。

変化をとらえることは容易ではない

今の段階での学習記録あとがきの総括を書こうと思っている。

あとがきのてびきには、書く観点の一つとして「自分の変化」がある。単純に自分の文字が変わったと書くこともある。書く文量が変わった、覚えた知識が増えた、読む観点が増えた……どの記述もそこまでの自分の足跡をたどって、具体的に形に見えることも、そうではないことも懸命とらえようと試みる姿が見える。

一方で短期間で「変化」を記述するのは難しいのではないかとも思う。むしろ「何も変わってない」と思う方が事実に近いのでは、とすら思う。変化を記述することへの無理強いが働いていないか、と自分へ投げかけたくなる。

たしかに、現場の実感として中学校3年間で人は大きく変わると思う。しかし、それを自分自身で実感するのは、もう少し時間が必要なのかもしれない。人間の変化というものを丁寧に考えれば考えるほど、簡単に「変わった」とは書けないのかもしれない。

一喜一憂する日々

生徒の記述をたくさん集めることは、たくさんの感情と向き合うことでもある。

今日は、「これを書いてこういうのが好きになりました。たのしかったー」という文章を読んで、単純に嬉しい気持ちになる。

確かに、記述を読むことや情報を整理することに時間がかかる。「ああ、もうやりたくないよぉ」と思う日もある。一方で、「やってよかった」と思う日もある。

何かを継続することはその繰り返しの中で、自分が行動するための感情を持ち続けることなのだなと思う。

「わかった」と「がんばります」

生徒の授業の記録でよく見られる記述が「わかった」と「がんばります」である。

 

授業で学んだことを書くのだが、結構安易に「わかった」を書くことが多い。授業内容と「わかった」を機械的にくっつけると、その日の授業記録が完成する。書かされる記録であるうちは、このパターンが多い。しかし、やっつけ仕事の「わかった」は本当のところ、残念ながら何もわかっていない記述である。

もう一つ多いのは「がんばります」である。授業記録の締めの決まり文句である。とりあえず「がんばります」と書いておくと前向きな姿勢を示すことができる。教師の目が意識されていると良くも悪くも記述内容に影響を及ぼす。

 

問題は、具体と抽象の往還の思考過程があるか、ということだ。「わかった」や「がんばります」という記述を撲滅したいわけではない。 学びの瞬間を具体的に記述することができるか、その先に具体的な自分に対する問いが向けられているか。それらを記述しながら「わかった」「がんばります」という言葉に集約していいのか。

振り返りの記述を読む時に考えてしまうテーマである。

授業復元のためのデータ

他者と共有するために授業のデータを残そう、という話。

 

大学院に入って、当然のことながら論文を読む機会が増えた。

中学校で授業をしている時は、毎時間の板書の写真、発話の録音、授業風景の動画、生徒が書いたもののコピー…さまざまな記録を残してきた。

それでも、やはり論文を書くには足りないと思う。特に、音声データがないと思う。

学習記録の記述内容を読んでいて、明らかに教師や級友が発言した内容が記述内容に影響を及ぼしたと思われる部分が見られるが、そのデータがない、と思うことがある。

授業をしている時は重視していなかったからだろう。

大体、音声データはたくさん残しても記録として見直す時間がない。とにかく、明日の授業を含めて、日々毎日やることがいっぱいだった。実際、発話の文字起こしは時間がかかって「やろう」と思っても実際にはできずに終わることが多い。

そもそも、授業記録を書くにあたってどれだけのデータが必要かということも、考えてなかったのだと思う。今こうして授業を研究対象にすることが目的となっているからそうしたデータが必要になるが、そうでなければ必要性を感じることもなかったのだろうなと思う。

できるだけ多くのデータを集めること、研究を主としている人にとっては当たり前なことなのかもしれない。しかし、明日の授業をどうしようと考えている自分には実感としてなかったことだった。