他者と共有するために授業のデータを残そう、という話。
大学院に入って、当然のことながら論文を読む機会が増えた。
中学校で授業をしている時は、毎時間の板書の写真、発話の録音、授業風景の動画、生徒が書いたもののコピー…さまざまな記録を残してきた。
それでも、やはり論文を書くには足りないと思う。特に、音声データがないと思う。
学習記録の記述内容を読んでいて、明らかに教師や級友が発言した内容が記述内容に影響を及ぼしたと思われる部分が見られるが、そのデータがない、と思うことがある。
授業をしている時は重視していなかったからだろう。
大体、音声データはたくさん残しても記録として見直す時間がない。とにかく、明日の授業を含めて、日々毎日やることがいっぱいだった。実際、発話の文字起こしは時間がかかって「やろう」と思っても実際にはできずに終わることが多い。
そもそも、授業記録を書くにあたってどれだけのデータが必要かということも、考えてなかったのだと思う。今こうして授業を研究対象にすることが目的となっているからそうしたデータが必要になるが、そうでなければ必要性を感じることもなかったのだろうなと思う。
できるだけ多くのデータを集めること、研究を主としている人にとっては当たり前なことなのかもしれない。しかし、明日の授業をどうしようと考えている自分には実感としてなかったことだった。