放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

中間発表に向けて

修士論文の中間発表会まであと1か月になる。

研究を深めることに意識が向いていて、研究の全体像が見えなくなっている気がして、これまでのレポートを集めて見直してみる。目の前の問いに対して調べる作業は好きだけれど、構成を立てることは本当に苦手だ。

午後は人文科教育学会大会に参加し、2つの研究発表を聞く。

気づきを促す教師の働きかけ

今日はこれまでの調査結果を一旦まとめる。

学習記録の記述内容をカテゴリー化していって、やっぱり分け方に納得いかず、バージョン2でまた分類し直す。「事実」「感想」「理解」「学びの言語化」「評価」などと分けた。とは言っても、分けられないのも事実で、目的は分けてみて全体を見直した時にどのようなことがわかるかということなので、ある程度詰めたら考察に移るようにしている。

おもしろいなぁと思うのは、教師が「気づいたことを書いて」と指示した時間は、生徒の記述も「どんなことに気づいたか」という視点で書かれるので、積極的に授業での学びを言語化した記述が目立つ。もちろん、気づきがない授業では、どのように指示を出しても書かれないのだけど、ちょっとした教師の発言が生徒の視点を学びへと動かすのだなと感じる。

 

9月初日は雷雨。注文していた『一人ひとりをいかす評価 学び方・教え方を問い直す』が届いた。これから読んでいこうと思う。

授業でのメモと記録と教師の関わり

学習記録には、当然のこととして教師の授業での発言・指示が反映される。素直な生徒であればあるほど、教師の言ったことがまとめとして引用されたり、記述内容が変わったりする。

いい意味で記録の気づきを促すと思うのは、活動中にメモを取らせる指示だ。

生徒は他者の発表をメモしながら聞くと、学習記録の記述内容も具体的になる。何が良かったのか、何がおもしろかったのか、メモを取りながら気づきが生まれているようだ。

モニタリング。

学習記録の記述数が少ないものを集めて、そのカテゴリーを調べる。

興味深いことに、自己評価だけを書く子、授業の事実だけを書く子などなど、それぞれに特徴があって面白い。

記述数と学力は関係なく、学力の高い子はポイントだけをおさえて端的に書く。そしてどの時間も異なることを書く傾向もわかった。

そして、短いながらも自分の学習中の感情や様子を言語化している姿も見られる。

 

問題意識としては、「問いを持つ力」だ。具体的に書けるかどうかは、やはり自分自身に問いを向けられるかどうかなのではないかと思う。先日、「自己言語化」「自己質問」の研究を目にしたけれど、そのあたりのキーワードが気になる。

国語教育研究の中では、読むことの授業でモニタリングの話題が出てくるけれど、学習活動そのものをモニターすることの研究って、どういう状況にあるのかなぁと漠然と思う。

 

そして、やっぱり私の信念にあるのは「入れ子」。

自分の行動時間を記録して、自分の生活をモニタリングしてみようと思い、数日間、何時に何をしたかメモを取り始める。

気づきを大切にすること。

学びにおいて、気づくことがいかに大切かを最近思う。

問題解決のプロセスにおいて、問題に気づくことがなければ始まらない。しかし、学校では、あらかじめ設定された問題に取り組むことが多く、問題に気づく経験をすることは少ない。もちろん、設定された問題に取り組むことが新しい何かを学ぶことにもなると思うし、そういう学習があっていいと思う。でも、学校では問いを持つこと自体が、むしろ生きにくさを生むような環境になっている部分もあると思う。

学習記録を読みながら、教師の課題設定が学習者の気づきに目を向けるのを邪魔しているような気がして、なんだかもやもやする。

自分のストーリーを語ることで強みを掘り出す

大学院に入って、自分が何の研究をしたいのか(ある程度の材料や方向性は決まっているけれど具体的に何をしていいのかわからない=探究する問いが具体的に持てない)という問題を通る。

修士1年生のテーマ決めに関する話を聞きながら、自分の1年前のことを思い出す。
keynote.hatenablog.jp

 

修士論文は一つのテーマを日々時間をかけて掘り下げていく作業をするので、選択する際の問いの設定は、自分の行動の根を作る大事な過程だ。

一旦自分がやってみたいことを挙げた上で、誰かに聞いてもらっていく。そうすると、なぜ自分がそのテーマを選択するのか、どんなことに問題意識が生じているのか見えてくる。

実はそういう自分のストーリーを語れることが大事で、その中で選択を促す何か(強く心が動かされるような体験 etc…)を掘り当てることが問題を焦点化していくポイントになるのだと思う。

自分の問題意識が定まってくると、方法の選択や先行研究の読み方もずっとクリアになって問いの追及が始まっていく。

 

修士1年生の話を聞きながら、改めて私自身も自分の体験を掘り起こしている。

1年後輩と話をするっておもしろい営みだな。

学習記録実践に学ぶ~伊木洋『中学校国語科学習指導の創造』

 大村はま由来の学習記録実践として、伊木洋先生の『中学校国語科学習指導の創造』を読む。

中学校国語科学習指導の創造

中学校国語科学習指導の創造

 

本書には筆者である伊木先生が1998年から2005年にかけて中学校で実践された国語科単元学習の詳細が書かれている。研究を始めてからわかったことだが、学習記録の実践は西日本の小中学校でいくつかまとめられており、また、その先生たちの共通点に鳴門教育大学での学びが挙げられる。大村はま文庫がある鳴門教育大で大村はま実践に触れ、その学びを活かして学校で実践し、記録として残しているのである。

伊木先生もそのお一人であり、現在も学会で発表を重ねられていてさまざまに考えさせられることが多い。学習記録実践の先駆者としての敬意、またその実践を1冊の本に記録として残すことへの熱意を感じながら読み進めた。

学習記録を作ることの意義は何か

第一章は国語学習記録指導の全体像を示す。大村はま全集には、なぜ大村はまが学習記録指導を大切にしてきたのか書かれており、これまでの研究同様、一つ一つに言及しながらまとめられている。

この章を読みながら、「なぜ学習記録を作るのか?」という問いは実践上避けては通れない問いだと気づく。どんな実践でも、その目的を問うことから方法の選択が始まるのであり、学習記録もまた、「学習者にとって/指導者にとって」どんな意義があるのか語られる。

国語学習記録を書くことを通して筆まめな人を育て、国語学習記録をまとめることを契機として、自己の学びのありようを見つめ、学びの意味を自らに問い、学び続ける発動的学習態度、学びに向かう力を体得させようとした。国語学習記録は、指導者にとっては、学習者の言語生活の実態をきめ細かく把握するために欠かせないものであり、学習者と学習者、学習者と指導者のあたたかい人間関係をつむぐかけがえのないものである。(p.268)

学習記録指導が学習者の実態把握、学習者との関係性づくりに寄与することが述べられている。

今回この部分を読みながら考えたことは、教師目線の学習記録の存在である。これまでに見聞きした学習記録指導の記録からは、実践者の子どもを見る力の深さを感じてきた。また、記録を通して「つながる」場面が生まれるとも思っている。どんなに大学で専門的な知識を学んでも、学習者を知ることについては実践の場での経験が教師の目を育てるのであり、学習記録を読むことはその目を養うことになるのだろうと思う。

実際に第二章以降の具体的な単元の記録においても、学習者が授業からどのようなことを重視しているのか、授業の学びをどのように言語化しているかを知ることができる。

 

ただし、学習記録の活用場面については、指導者の仕事の優先順位(どのくらい記録を読む時間を取れるか)や記録を読む観点(記録をどのように読むか)といった現実的な課題があると思っている。授業内で学習を振り返る機会を持つことと併せて、授業外で教師がどのように学習者の記録を読むのかは、考える余地がありそうだ。

 

今はまだ言語化できない「自己評価力」

今回読んでいて気になった用語は「自己評価力」だった。

学習記録の意義を語るときに「自己評価力」というキーワードがある。生涯に渡って学び続けることが重視された流れを汲み、学習記録も学び続けるための方法として語られることが多い。事実、学習記録には、その日の授業で何が行われたかだけでなく、学習者自身が学習課題に対して自身の学びや活動の評価を言語化する。私自身も、実践の最中は「自己評価力をつけることが大切だ!」と思って学習記録の指導をしていたように思う。

結果、学習者の記録には「~がわかった」「~ができた」「~が難しかった」といった記述が見られるのだけれど、果たしてこのような言語化が、その後の学びにどのようにつながっているか、今の私の中でもやもやしている。

本書の説明の中にも「自己評価力」が出てくるのだけれど、学習記録が今の教室の実感として表現するに何か足りない。私の経験や想像が足りないのかなぁなどと思う。

 

実践記録としての強み

実践記録として見た時、自分の記録を書き起こしている時と同じく感じることは、教師の指導言、働きかけ、生徒とのやりとりなど、具体的な授業場面が提示されないことが課題に感じた。

私の中で授業を知るための経験として、インプロで参加者の身体の動きや場の流れを知ろうとすることや、教師や生徒の発言を文字起こしすること、ストップ・モーション授業検討のように教師の発問や生徒の反応を動画で見ることなどがあるが、そうした記録と学習記録の実践は得られるものが基本的に異なる。

 

一方で、圧倒的な強みとして感じるのは、学びのプロセスを示す資料が豊富に提示されていることだ。学習者の行為や言葉によってプロセスが開示されることで、授業者としても学習者から学び得ることが多い。

何より、授業が生徒の言葉によって意味付けられることが、学習記録の強みなのだと思う。学習記録の言葉には、生徒の学習観が表現されるし、教師の隠れたカリキュラムを自覚させる機能もある。

そして、学習記録を再読した筆者の、学習者を表現することばもまた、豊かであることを感じずにはいられない。

学習記録を触媒にして学習者を語ることに可能性を感じたことも、今回の読書の大きな収穫だった。