放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

色々考えてしまうのは、春だから?〜4月の振り返り

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1、男女混合名簿からの見直し

 今年度より男女混合名簿に移行した。制服もブレザー制服になり、男女に関わらずスカートやスラックス、ネクタイ、リボンを選べるようになっている。前任校も男女混合名簿だったが、実際には男女に分かれて体育の記録測定や、保健関係の測定が行われており、旅行的な行事においても部屋割りは男女で分かれ、人員確認をする際もやはり男女の人数で把握することが多い。結局はいろいろな場面で男女に分かれて活動することが多いのが学校教育の現状である。

 先生によっては、「〜くん」「〜さん」を使い分けている先生もおり、私なんかは「〜ちゃん」も積極的に使っていきたい人間だが、それでもこの流れの中では、何となく男女の性差をつける呼称に自己規制がはたらくようになった。最近は「〜氏」という言い方に落ち着いてきている。


2、教室環境の整備

 時間割ホワイトボードを1年ぶりに復活させる。昨年度はGoogleスライドで時間割を作成して、教室のテレビに常時自動再生させていたのだが、今年度は改修工事が途中から入ることも考えると、持続可能性を考えて、アナログの選択をする。でも、すでにデジタルの方が圧倒的に楽だったなぁと思っている。実際、子どもたちの忘れ物も多いような気がしているので、どのくらい継続するかは正直自信がない。


3、全ては国語につながっている

 誰しもが新年度の体制に不安を隠しきれない時期だった。昨年度の顔見知った仲間に会うと安堵の表情を浮かべる子どもたちも少なくない。クラス替えは大きな環境変化だと改めて思うし、変化・成長のチャンスでもある。

 私自身も大きく働き方が変わった。特に、昨年度から、私は学級経営や学年経営について考える機会が多くなっている。私の本丸は国語科授業であって、それ以外の仕事に関しては結構ドライに対応をすることが多いのだけれど、実際にはどの業務も国語につながってくることに最近ものすごく考えるようになり、全ての業務を安定して運営できることが自分のもっともやりたいことに近づく道のりであるとすら思っている。

 もちろん、働き方改革を背景にして、ワークライフバランスを考えたり、定時に退勤しよう・計画的に年休を取ろう、と積極的に推進していきたいとも思っている。教師が幸せであることは、それだけで子どもたちに与える影響が大きい。

 ただし、どの教員も働き方改革の一定の枠でおさめられるほど、教師の願いは狭いものではない。猛烈に授業研究に邁進する先生もこの世の中には存在するわけで、「働き方改革だから」と、本来この仕事でやりがいを感じる部分の時間を奪われるのは違うよなと思う。


4、子どもとの関わり方

 4月の職員室は、先生方の生徒への関わり方が相対評価されていく過程が面白い。攻めを基本とする教員の在り方に対して、私は受けを得意とする教師なんだと気づく瞬間がある。それが良い場面もあるのだけど、弱点となる部分もわかってきて、自分から仕掛けることを今年度の課題としたいなと思っている。あと、圧倒的にユーモアが最近少ないので、叱ることとほぐすことのバランスをよく考えている。

 

5、読書1万ページへの挑戦

 ICTを活用した教育の推進に力を入れるようになって、読書がおろそかになっている。今年はもう少し、自分自身に読書教育の推進を課したいと思っている。手始めにGoogleサイトを使って、読書記録の蓄積をやってみたが、どれくらい継続できるものだろうか。可視化されると少しだけ達成感のようなものもあり、冬まで続けばいいなと淡い期待を抱いている。


6、「ふしぎ」という言葉で耕される探究心

 教科書教材の金子みすゞ「ふしぎ」の授業に入る。あすこまさんが記録していた全国大学国語教育学会で行われた詩創作のワークショップからヒントを得て、フリーライティングやマップ作りをもとにした詩創作単元を計画した。

 結果として、詩創作よりも、「ふしぎ」という言葉から耕される「どうして〜なのか」「なぜ〜なのか」といった、探究の問いが生まれることが面白かった。一人一人がどのような問いを持ってこれまでの生活を送ってきたのかが垣間見えて、子ども理解にも繋がる単元となる。

 「「ふしぎ」という言葉について考えるのは、「哲学」みたいだねぇ」という生徒のつぶやきが印象に残っている。

授業びらき「名前教えて」

単元1「名前教えて」4/15-4/19

【授業のねらい】

・聞き手を惹きつけるスピーチの工夫について、小学校までの学びを実践してみる。
・一人一人の名前にはそれぞれに固有の意味や思い入れがあることを知る。
・クラスに自分を拓く。自己開示する。

【授業の展開】

1時間目、私の名前の由来スピーチ、ペアで練習
2時間目、1分間練習、前半組スピーチ
3時間目、後半組スピーチ
4時間目、スピーチの極意作成

【振り返り】
・昨年度までの「名前教えて」は、私と生徒の対話形式だった。そのため、負荷も少なく、「よろしくお願いします」だけの人もいた。たった1時間だけの授業なので、記憶に残っていない生徒も多く、1年間を通じて流されてしまった感があった。今年は、1分間スピーチ形式で、チャレンジングだったが、人前で話すことにさほど抵抗がないだろうという見込みは持てた。記録も残しながら聞いた。それでも、前半組は動画を撮るだけしかできなくて、後半組しかメモは取れなかった。メモを取りながら聞くと、改めて何を学ばなければならないのかを考えさせられる。
・まとめについては、「スピーチの極意」として全員のスピーチから抽出できるスキルをまとめたけれど、私が求めるものは、もっと体系的なものだったように思う。学習用語を網羅したい思いがジリジリ感じられた。まとめるための時間を20分程度しか取らなかったので、全て網羅するなんて授業の設定的に無理だし、授業びらきに求めることではない。それにしても、スピーチにおける学びを、解としてもっとくっきり示せないものか、と思った。活動を一般化して、学びに落とし込むことが必要だと感じている自分がいた。
・デジタル学習履歴として動画の記録を撮ったが、100名以上の動画、いつどう活用するのだろうか。一人一人を見たいと思うけれど、それは20人くらいの受け持ち生徒だったら可能なのであって、100人とか、担当している生徒の数を考えると、できることとできないことがある。できることを考えると、小さくなってしまうのが、虚しい。
・ある生徒が「他に専門用語はありますか」と聞いていた。スピーチにおける技を学習用語として身につけることに私の関心が注がれている。それと同時に、「アイコンタクト」「ジェスチャー」「インストラクション」……どれも外国由来だなと思う。スピーチ自体の成功イメージがTEDとか、スティーブ・ジョブズとか、日本人のスピーカーじゃないもんな、と思う。もっと、日本人のスピーチモデルで素晴らしいものに触れなければいけないような気がした。音声言語に関しての日本の教育についての関心が生まれた。

春休みに読んだ本。

メディアミックスについて考える

春休みに読んだ本を振り返る。

1年間で数回、女子生徒を中心に、この本がおすすめですと汐見夏衛さんの本を紹介される。映画を見に行った生徒が多いようで、ちらほらと感想が聞こえてきた。

特攻隊を扱った物語なのだけれど、汐見さんの描く物語は、おそらく好みを二分するのではないかと思う。自分への問いかけが多い読者は、気になるところが多すぎるように思う。物語に素直に感情移入していく読者は面白いのだと思う。

地域の図書館司書の方や、国語科教員の方たちともこの作品について話題にすることがあったが、とても微妙な議論になった。

私個人は、物語の質を問うよりも、生徒が私に紹介してくるという事実が何よりも重要に思うので、この本についても「この子はこの本に興味を持つのか、おもしろいなぁ」と単純に思っている。

ただ、メディアミックスについては、改めて繊細な見方が必要に思っている。国語科の教材研究でも、同じ作品をメディアの違いでどう表現されるかに注目する授業展開が想定され、一見、授業のネタとしては面白そうに思う。

でも、なぜ違うメディアで表現することになったのだろうか。

この問いを持ち始めると、他のメディアに置き換えられて表現されることへの抵抗感を私は持ってしまう。

 

探究を深める問いを生み出す力とは何か考える

探究について考えていく中で読み返していた本たち。

「問い」に関する授業づくりは国語科でもテーマとして特集されることが多いと思うのだけれど、探究を深める問いを生み出す力ってどのように育まれるのだろうと考え続けている。やってみて、ひとまずこの問い出しの方法ではだめだなとか、学んでいる途中である。

探究に関するスキルについても興味があって、体系的に考えたい。

ブラタモリは、探究学習の先輩からお借りした一冊。フィールドワークのまとめ方の一つとして面白いかなと思っている。小中学生の頃、NHKが制作した本の編集の仕方を真似して自由研究のレポートをまとめていたことを思い出した。

学習は、教師も一緒になって面白がれることが大切なんだよなと思う。

 

長野県松本市図書館から相互貸借で読んでいた軽井沢風越のプロジェクト本『プロジェクトの学びで私をつくる』もアップデートされるようなので、どこかで読めたらいいなって思っている。

 

「答えを出そうとしないまま保留しているのは、何も考えないのと一緒なんだよ」

「書くことで考える」という、わかっている人には新しくない本だが、もれなく私には色々突き刺さる1冊。改めて読むこと、書くこと、考えることと向き合いたいなと思わせてくれる。物事の可能性ばかり探って答えを保留にしている自分に気付いて面白い。

 

自分ではあまり意識していなかったのだけれど、この1年で読みたい本が変わってきているのかもしれないな。

出会う教室、出会う人たちによって関心が変わっていくのは、漂流しているようだ。

私らしいなと思う。

やれない理由を探すのではなく、どうしたいのかを自分に問う。

覚悟

教育書籍の出版物の多くが、3-4月に集中する。3月は、多くの先生方にとって次の現場への意欲や不安を持ちやすい時期だからだ。

今年は少し、この現象に対して、どうしたものかなと思っている。なぜなら、答えは、外にあるのではなく、自分自身にあることが多いと私は思うからだ。

新しいことを知ることも大切なのだけれど、新しいことへのチャレンジは、子どもたちが見える場でできるのがいいなと思っている。

 

今朝、熊平美香さんの言葉を思い出していた。

日本で、学習する組織のリーダー養成支援を始めた頃、ある企業から、「事業部を超えた連携を実現し、顧客価値を創造するリーダーを養成して欲しい」という依頼を受けました。(中略)いざ、研修を始めてみると、様子が全く違います。グループワークの会話は、やれない(やらない)理由で盛り上がり、「それなら、評価制度を変えて欲しいよな」と、やれない(やらない)理由は自分ではなく会社にあるということで、概ね合意が取れている様子でした。「あなたは、どうしたいのですか」という問いに、「……」と無言のみなさんが、できない理由を語る時は雄弁です。こんな時、組織の一員として自ら手本を示すことができない講師という立場は、無力です。(おわりに p.373)

 

新年度、環境が変わる人も多いと思う。望んでその環境に身を置いている人もいれば、そうではないと思っている人もいると思う。どちらにせよ、「あなたは、どうしたいのですか」という問いを抜きにして、自分の実践の充実を考えることはできないだろう。

 

甲状腺、「揃わない前提の授業とクラス」、iPad

甲状腺の定期通院で札幌に来る

11月以来の通院だ。

雪解けは進んでいるものの、道横には大きな雪の山。

やはりここは、今私が住んでいる街とは違う気候なのだと感じる。

 

血液検査では甲状腺で作られる甲状腺ホルモンの量を測定する。

FT4という甲状腺から分泌されるホルモンが若干基準値以上だった。甲状腺機能亢進症の特徴である。

ただし、FT4を元にして肝臓で作られるFT3は基準値内。つまり、甲状腺ホルモンの全身への作用は正常である。体調的には問題ないだろうとのことらしい。

白血球量のWBCは少し高めだが、日常の体調には影響はないとのこと。

年度末疲れのせいか、甲状腺を刺激して甲状腺ホルモンの分泌を促すTSHは基準値以下。うつ状態ではTSHは低値となることもあるので、まあ、そういうことなんだろうと思う。

ストレスとうまく付き合っていくしかない。

 

1年間を振り返る季節がやってきた

Amazonを除くと、3月のリセット期に合わせた書籍が軒並み上位にランクインしている。

注目すべきは、「揃わない前提」と名付けた授業づくりネットワークか。

11月以降、外に出ることを控えて、極力本務を中心に思考が回っていたが、どの提案にも現実の教室の姿が浮かび上がるようだ。

読者はクラスのあの子や、わたしの担任したクラス、授業で這い回る自分のことを思いながら読むだろう。

「揃わない」というのは、もはや教室の実感レベルの言葉なんだなと思う。

私も1年間の授業を振り返る時期になったけれど、やはり「お付き合い」いただいている感は否めなくて、「ほんとうの学び」というものを考えざるを得ない。

 

新しいiPadを買う

大学院から現場に戻った際に買ったMacBookがいよいよ寿命を迎えている。

1年間の学習記録づくりにおいては、手書きとタイピングの狭間で悩むことも多かった。

共同研究者である子どもたちは、多いにデジタル化の実証実験に取り組んでいたし、

紙とペンに拘り続けた部分もあった。

その中で、ずうっとタッチペンの存在が気になってきた。

 

今年は手帳を手放して、記録をスマホとChromで一元管理したのだけれど、やはり思考はノートだった。

私は基本的にメモ魔なので、全てをメモすることで全体像を掴む。どこでわからなくなったかをたしかめたり、新しい発想が生まれたりするのは、手書きの作業になる。

まとまった文章を書くときのプロット、テスト問題の下書き、単元構想メモなど、自分が考えるために必要なツールは手書きメモだった。

それでもやはり現実的に大量のメモを見返す時間というのはなくて、どっちつかずな状態にある。

 

もはや迷っている場合ではなくて、仕事のために必要なツールは自分のお金で買う。

むしろ遅すぎるくらいだろうな。

 

ビッグカメラでは春の商戦中ということで数分で買うことができた。

明日からはタッチペンというツールが自分の思考とどう関連していくかが楽しみだ。

2月はもう何年も厳しいけれど

寒さが堪える季節。

 

居住を変えて雪のない道路も、温かな日差しも、幾分か私にとっては有難いことだ。

浜の風は時に身に染みますが、それでも、私はこの街を選んだのだと毎朝一歩を踏み出している。

 

なんて、そんな立派な日々ばかりではない。

しかし、自己卑下の言葉ばかり集めても日常は停滞する一方で、無理にでも自分を鼓舞して朝を始めている。

 

2月はやはり鬼門で、メンタルダウンの激しい日々が続く。わけもないザワザワした心が、自分ではどうしようもコントロールすることができない。数日間横になってただ時間と気力の回復を待つしかない日がたくさんあった。

毎日研究に向かっていかなければと思うのに、思うように起き上がれない日々が辛くて、悔しくて、言語化するのも苦しくなるとき、何も考えないようにしなければ、生きていくのが難しいと考えるようになった。

これは自分の生命を軽視しているとかではなく、発作のようにして、考えがばーーーーっと浮かんできて、暴力のように自分に向けて突き刺さってくる。ただただ考えるのをやめることでしか逃れられない時間になるのだ。

 

そんな1ヶ月ほどで、ほとほと疲れた。

誰かが悪いのでもなく、何かが悪いのでもない。

私という人間は、もう何年もこうなのだから、ただ付き合っていくしかないのである。

 

群像の中で描かれていく私たち。

 最初に断っておくと,これから書くことは断片的なメモのようなものであって,私個人の中で一つ一つの作品がどう繋がっているのかを勝手に繋げたものに過ぎない。一方的なまとめ方だと思うので,繊細に一つ一つの作品を大切に思う人,これから小説や映画を見ようと思う人は読まない方が良いと思う。

 

 

 

 

 

映画「キリエのうた」を見ながら思っていたこと

  • 函館に住み始めて困ったなあと思うのは,観たい映画が公開されてすぐに観られないことだ。映画の公開が決まって,前売り券を買って,公開初日に映画を見にいこうとしたら,公開している劇場が札幌にしかなかった。まま,こういうことはよくある。映画館や図書館,コンサートホールなど,文化を受容する箱があるだけでそれはとても有難いことなのだと思い知る。人口が多いということは,それだけ多様な文化に触れる機会も多いということだ。もちろん函館でしか知り得ないことだってたくさんある。
  • 岩井俊二作品はコロナ禍で閉鎖する直前の映画館で見た「ラストレター」以来。一貫して描かれるその瞬間の美しさと,新宿・大阪・仙台・石巻・帯広の街を交差する世界に3時間ワクワクした。全体的に題材として描かれる世界は暗くて嫌悪感もものすごく残るのだけれど,雪のシーンが美しくて印象に残る。もちろん,キリエの歌声も。
  • どうしても気になってしまうのが,東日本大震災をどう取り上げるのか。これは新海誠の「すずめの戸締まり」を見た時にも思ったことだ。

     

  •  貧困が再生産されてしまうストーリーをどう受け止めてよいのかわからない。生まれ育った環境の中で,色々な嫌悪感を抱きつつも,親から手渡されるものをどう受け止めて生きていくのか。弱者だと決めつけられた人が出てくる作品は少し手を伸ばせばいくらでもある。一つ一つ全然違う物語だということは前提の上で,それでもなお,外からはよくあるストーリーとして一括りに解釈されてしまうことに問題がある。
  • 誰とも共有できないと思っていた価値観を「繋がり」に求めることをどう考えるか。言葉を尽くしても語れない関係性というのが世の中にはあって,それはまだ,「友達」「恋人」「家族」とか,わかりやすい言葉にもなっていないことであり,言葉にもなっていないのだから,当然,他者にわかってもらえない。司法の前では「正しく」あることができない。そういう生きづらさを感じる人々を描く作品がたまたまなのか,私の前にある。