放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

フィールドワークを行う際の問い

1 自分がフィールドをどのように理解しているか

2 フィールドに内在している要素は何か

3 フィールドによって気づいた自分の問題関心は何か

4 他者は同じフィールドをどのように見ているのか

辞書と生活とことばと

日本文学研究の演習で発表するようになって、「解釈」とは何か、ということを考えている。

解釈を書く、ということも、解釈そのものがわからないと書けない。

先人が述べることを読む、という方法もあるのはわかるけれど、自分の体験から自分の考えを作っていくところから始める、これが私のスタイルだと最近思っている。これがいいとか、悪いとかの評価はひとまず置いておき、私の特性がこうであるということは自分で一番はっきりさせておきたい。

 

それで、今どんな体験をしているかというと、作品の古注釈を読み、その比較をしながら本文がどのように理解されていたのか探るということをしている。「どのように理解されているか」ということが解釈なのだとすると、今度は理解と解釈の違いはなんだろう、ということになる。

 

……このあたりまでくると辞書で調べる、という作業が始まっていく。最近はこういうことの繰り返しで、図書館をぐるぐるぐるぐるしている。

しかし、辞書で調べてしまうのは簡単だけれども、自分の体験からことばの意味を考える時間というのも、ことばを自分の生活の中に取り込む意味で必要なことだと思う。

私は辞書引き学習を国語科授業で大切にしてきたけれども、授業時間よりももっともっと大きい生活の中で、ことばがどのように理解し、認識されているのかということをもっともっと学べる授業を作ろうと思う。

録音して、2回聞く

演習発表が終わると、心的ストレスから一気に解放される。

それで何もしないでいるとあっという間に次の発表がやってくる。

熱が冷めやらぬうちに論を立て直すことが大事で、ここ最近大切にしているのは、録音した発表をもう一度聞き直すことだ。

人は聞いているようで実は聞き逃していることがたくさんあって、面談なんかもちゃんともう一度自分のために聞き直すことが大切だな、と大学院生になって思う。

その場では理解できていなかったことも、2回目にはわかることもあり、自分で自分の課題に気づくこともある。

聞き直すとはとても興味深い振り返りの作業である。自分を客観的に見つめ直すために実は有効な方法である。

エネルギーを蓄える

淡々と仕事がしたい。これ、私にとって切実な問題です。

 

演習形式の授業で自分の発表の番がまわってくると、どうにも他のことが手につかなくなってしまう。

日常のあれこれがうまくまわらなくなってしまう。例えば、食事。気持ちに余裕がなくなるので食べなくなったり、外食が多くなったりします。平板に日常は区別して回せたらいいのに……事後反省になります。

 

エネルギーをどのように消費するかは個人差が結構あるようで、いっしょに仕事をしている人にも、どのように仕事をするかはさまざまなようです。締め切り1週間前に必ず仕上げる人、余裕を持って区切りをつける人、直前になってエンジンをかける人、さまざまです。私は本当に直前にならないとダメな人で、これの本当によくないなと思うのは、結局時間的に足りないで終わってしまうこと、それから体調面で急激に過度な負担を自分に強いる結果になることです。

 

だいぶ無理をしないで計画的に休養を挟みながらやるべきことをやる、ということができるようになってはいるのですが、同時処理の仕事が増えるとキャパオーバーになってしまいます。自分の持てる仕事量の把握というのも自己理解において大切なことだよな、と思いながら、今日も授業の課題に朝から取り組みます。いや、取り組み始めると楽しいのはわかっているのですけれどね。その取り組む、という行為を始めるまでの自分を起こすことが結構難しかったりします。

 

なんだか最近はぼやきみたいなジャーナルになっているな……と自覚しながら今日も作業を始めます。

スタバとタブレットと私

部屋とYシャツと私の時代は終わった。笑

いや、あの曲は好きだけど。

 

今の私に必要なのは作業に疲れた時のコーヒー。その日の気分でカスタマイズできることは結構重要。研究室から徒歩数分にあるスタバを愛している。とりあえず行き詰まった時はひとまずコーヒーを飲む。事態は変わらないけど、気持ちは落ち着く。

そしていつでもどこでも書き始められる持ち運び便利なタブレット。パソコンと併用時はタイマーや作業ログ用として活用。簡単な辞書系アプリもあるので、授業中の調べ物はやはり便利です。紙媒体はいつもいつも持ち運びするには荷物になりすぎるので。

コメント力をつけるとは

単元構成の一つのあり方として次のような型がある。

 

課題提示→個人思考→発表(情報共有)→全体討議→振り返り(まとめ)

 

全体討議において、参加者に気づきを与えたり考えを深めたりするような発言ができる力(コメント力)は、数時間の指導でできることではない。たとえば次のようなことが必要になる。

 

・どんな情報がいくつ提示されているか理解すること

・どのような観点で発表をしているか理解すること

・説明するための語彙を持っていること

・その場において優先して言わなければならないことは何か判断すること……

 

このようなコメント力はすぐにつく力でもなく、また一人で勉強していてつく力でもない。

さまざまな場で人の優れたコメントに触れたり、自分が情報を整理しながら説明しようとする体験をしたりする中で形成されていく力なのだと思う。

 

こういう場こそ、学校教育の中で意識的に教師が作っていかなければならない場なのではないだろうか。

記述を通して現場を映し出す

 引き続き質的研究の勉強。

質的研究と記述の厚み―M‐GTA・事例・エスノグラフィー (グラウンデッド・セオリー・アプローチ)

質的研究と記述の厚み―M‐GTA・事例・エスノグラフィー (グラウンデッド・セオリー・アプローチ)

 

 ここにきて実感するのは、先が見えない感である。仮説検証型と比較するとそれは大きい。しかし、問いを考えながら記述していく中で発見することにとても価値があるように思う。

 例えば、今、学習記録によってこれまでの自分の授業を改めて記述し直しているが、その中で私は国語科の「領域」とか「指導事項」とかを分類の観点として見ている。しかし、記述していく中でもしかしたら学習者の記述の傾向がいくつかに分類できそうな気もしてきている。

また、自分が「気になる」記述を抜き出すことで、自分の生徒観や授業観を知るきっかけになるような可能性も感じる。

それをどのように論文としてまとめるのか、というのが今一番の問題なのだけれど、このように膨大に記す中にいくつもの問題点は隠されていて、ひとまず自分が何らかの切り口でまとめることで今この時代の現場を映し出す1つの切り取りになればと願う。