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放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

人と語らい、人に甘える。

前日から内留生の方や尊敬する先生たちと夕食をともにする。

当日も同期の子と7分科会の資料を目に通しながらさまざまな研究の一端に触れた。

ぜひ、いらしてください、とあたらしい学びの場もひらけた。

 

午後は久しぶりの岩手大学キャンパスで、蓮の池を見て懐かしんだ。

お昼はお弁当を頼んでいて、中央の学食で

初めてお会いしたけれど、近い研究分野の同年代の方と語り合い、

話したいことを気兼ねなく話せることは幸せなことなんだなと思う。

 

夜は日が変わるまで、「わたしはなにがしたいのか」「30年で世界を変えたい」という馬鹿な悩みに耳を傾けてくださったこと(昨日は少しだけお酒も入っていた)ただそれだけなのに、大学という新たな環境にきてよかったと思う夜だった。

 

でも甘えすぎてはいけない。

ひとり立ちしてはじめての学習者である。

本が読みたい。

開運橋。北上川岩手山。菜園。大通り。映画館通り。

 

今日から全国大学国語教育学会岩手大会である。

 

どれも懐かしい、わたしの大学生活の一部。

孤独だった大学4年間。

アルバイトと生活と教員採用試験がほとんどの割合を占めた大学生活。

教育学に目覚めたのは大学3年の冬で、少し遅かったのだと思う。

それが今の学びへのこんぷれっくすになっていて、

働いてからのほうが時間がないのに本が読みたいという欲求が大きくなった。

 

学部時代の先生にはご挨拶もせず、大変不義理を働いている。

落語を見に行ったり、韓国人留学生との交流があったり、

私ひとりのゼミだったにも関わらず気にかけてくださっていた。

今もそうだが、私は何がしたいのかがよくわからない。

そのような私を相手に言いたいこともたくさんあっただろうなと思うが、

いつも学生を尊重してくださって、私は教員採用試験にも集中できる環境だった。

 

今、教育研究の院生として筑波大学にいること、どのように思われるだろうか。

今回の学会が終わったら、ご挨拶しないといけない。

説明が長い、から考える授業へ。

初任時の授業を振り返ってみた。

 

ありがたいことに、私には拠点校指導の先生が週に1度のペースで私の授業を参観に来られた。

校務分掌のこと、生徒指導のこと、授業のこと、困っていることを聞いてもらいアドバイスをもらえた。

特に自分のためになったと思うことは、客観的に授業を観察して言語化してくださっていたことだ。

 

国語科専門の先生ではなかったけれども、「課題が明らかになっていない」「説明が長い」「生徒の活動を増やす工夫があるとよい」といった記述が目立つ。

1年目に終わってみて気づくのだが、私の国語科授業はスキル説明の授業であり、体験させたり、理解を深めたりする活動が少なかったと思っている。

とにかく、説明・指示・発問が典型的な授業だった。

それで1時間を「もたせる」感があって、テンポもいまいち、まったりする生徒の様子が見られている。

教師があらかじめ用意した解答にいかに気づいてもらうか、そういう授業だったと思う。

言語技術の意識みたいなものはあって、例えば短歌のこの時間では「句切れ」を扱おうとかいう意識はあるが、「句切れ」とはそもそも何か、どうして存在するのか、これを生徒が知ることによってどのような知識の広がりがあるのか、短歌を読む上でなにが重要なのか、そういった問いが自分の中になかったような気がする。

あったとしても、明日の授業の発問を考えることで精一杯で、何かの本質を突き詰めるという暇は私にはなかったのだと思う。

定期テストや成績提出など、締め切り仕事もあるとなれば、より一層、思考は日常の中で埋没していった。

1時間授業することに不安で、ワークシートも作っていた。ワークシートにハマる罠にまんまと引っかかるのである(その中のワークシートで昨年も使っていたものはない)。

 

とにかく、思い切って活動させたり、体験させたり、ということができなかった。それだけの時間を費やして学習の質を保てるほどの技量も思考もなかった。

 

今は「これ」と決めたら、とことん繰り返し、2段階くらいでレベルを変えて体験するくらいのことはできると思っている。それから、生徒の反応をよく見られるようになってきて、生徒に聞きながら発問や活動を変えることもある。柔軟性が出てきたと思う。

 

それでもやはり、言語事項の授業は教えることが明確で、説明・指示・発問を基本とした授業は自分にとってやりやすい授業だった。たぶん、多くの人がそうだと思う。それで、うんと読む授業よりも、言語事項を扱う割合が多いカリキュラムになる。

 

でも、それではいかんのだ。

16日に発表された大学入学共通テスト(仮称)の問題が授業でも課題となっていて、改めて思う。

 

大学入学共通テスト(仮称)の国語、数学の問題と解答


これは授業のあり方を考えるための一つの材料にすぎないけれど、この問題とまじめに向き合えば、授業の問いの質も変ってくるだろう。少なくとも、一問一答だけではすまされないことはわかっている。

同じようなことが、PISAの問題や全国学力学習調査のB問題を読んだ時に感じたものだったと思うが、どれだけ授業に反映されてきただろうか。

 

やはりもう一度立ち止まって考えてみなければならないと思う。

 

「わたし」はどんな存在で、どのように「わたし」を表現するか。

一転して肌寒い空模様です。

温かい豆乳ラテがおいしい朝です。

マグカップはスタバの北海道限定マグです。

だけどコーヒー豆は近所のスーパーの一番安いのです。

  

今朝は次の記事を読みました。

courrier.jp

彼女の作品はアイデンティティであり、パフォーマンスであるだけでなく、過去のアーティストを振り返る美術史的な要素も有しているのです

このように評される彼女の作品は本当におもしろいと思うのです。

片山さんのアイデンティティはその強烈さとともに、

世界に受容されるものになっていて、なおかつ歴史の上にも立っているからです。

 

この作品を初めて見たのは2016年の「六本木クロッシング」でしたが、

私の中では1年経ってもずっと残り続けている象徴的な作品なのだと思います。

 

「わたし」はどんな存在で、どのように「わたし」を表現するか。

 

グローバル化とか、多様化とかよく聞きます。

”大きなことば”なのでもう少しよく考えなければならないな、と思いながら、

このように言われる社会の中で、自分たちのアイデンティティをどのように発信していくのか、ということはとても重要なことに思えてなりません。

 

日本語とか国語科とか、

その言語特有のものは何か、

その中で社会に発信していけるものは何か、

自分たちが大切にしたいものは何か……

 

ちょっとまじめにこういうことを考えたくなってます。

自分の価値観を探す。

昨日まででした。

開催が終わったら少し書こうかなと思っていました。

 

何度も言いますが、私はミーハーなので、草間弥生に対して特別な感情も知識もありません。

この時代に生まれて、これだけの注目を集める人とはどのような人なのか、

そして人はそれになぜ注目するのか、ただそういうことが気になるのです。

 

さて、行ってみてよかったことです。

  1. 学割が使える。  学生証を見せると1000円になりました。学生よ!今すぐ、美術館へ足を運べ!と言いたくなります。
  2. かの有名なかぼちゃが思う存分見られる。   草間弥生といえば、「水玉模様のかぼちゃ」というイメージなのですが、どれくらいの人が共有しているのでしょうか。そのかぼちゃ、外に展示してあって写真撮り放題でした。その光景が展示の中からも見られるのは、ちょっと面白いです。ちなみに展示室内も多くの場所が撮影OKで、スマホのカシャカシャする音が響いてました。みんなインスタにあげるのでしょうね。私はロッカーに預けてしまい、撮れませんでした。
  3. 水玉模様がこわくなる。    水玉模様の原点は草間自身の幻覚からくるものだそうです。一見ポップな水玉模様の中に、ある瞬間から恐怖を覚えます。連続するもの、それが自分をも吸収してしまうもののように感じさせる狂気の表現は、やはり他の人には作り出せない作品なのでしょう。
  4. インスタレーションやハプニングを知る。   「前衛的」とも表現されていました。空間を使った表現だったり、草間自身がパフォーマンスをしたりする様子が写真や映像で残っています。今ではよく見る表現方法ですが、これを60年代ー70年代に精力的に行っていたことを思うと…別な時代を生きていた人のように思えてきます。暗闇の狭い部屋の中で光を使ったインスタレーションが最も印象に残り、美しかったです。『生命の輝きに満ちて』という名前でした。

 

ここからさらに個人的な感想になりますが、私は水玉が苦手です。

ある日、家族が結婚式の引き出物でひまわりの食器をもらってきたのですが、

その真ん中部分がつぶつぶした突起物になっていて気持ち悪さを覚えたのでした。

思えば、日光湿疹によくなっていた私は、規則的に点在するものが

自分の内部まで及んでしまうことがこわかったのです。

 

今では湿疹も落ち着いて、ほとんど出てくることはないですし、

モノと自分を同一視することもないのですが、

草間作品はその時の感覚を引き出してきます。

一方で、水玉のワンピースなんかをかわいいと思う自分もいて、

気づくと、すっかり水玉模様の魅力に引き込まれているのでした。

 

芸術は「よくわからない」と言いがちですが、

作品を見ながら思い出したことや感じたことを語り合う、

ギャラリートークと言っていいのかな、

そういうのは、私、好きです。

何かを通して自分を見つけるプロセスが面白いのだと思います。

特に、自分と向き合うことから逃げたくなるって人、いませんか。

 

自分の価値観を探す過程は自分にとって必要なことなのではないかと思います。

 

夏を感じる日に。『劇場』

先週から温かい飲み物よりも冷たい飲み物を欲するようになってきました。夏を感じます。

いよいよやってきたな、と身構えまてますが、特に武装はしてません。

 

今日はこれを読みました。『劇場』。

私ってミーハー?

 

劇場

劇場

 

 

 

するっと読めましたよ。

難しい言葉も、難しい描写もないです。

ボケ、ツッコミ、笑い、の流れは寒くもあり、おもしろくもありました。

主人公の身勝手さに共感する人もいることでしょう(それもどうかと思いながら)。

他人と比較して、焦燥の思いに駆られる人も読むとおもしろいのかもしれません。

 

 

私はその1人でした。

 

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歌人の栄華と政治の苦難

 

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教育もアートであるうちは、その人自身の表現でしかない。