放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

デスクトップに進行中ファイルがいっぱい。

今日から日本文学研究という授業での発表が数週間続く。

秋学期は調査→発表型の演習が続いて、時間をどう使い、どのようにまとめるかが課題になっている。

同時に、今月末に控えた研究授業の準備も進める。急ピッチで、空いた時間は教材作りや調査アンケートの検討をする。

研究室は夜型が多く、授業外で話し合うにはどうしても帰宅時間が遅くなってしまう。

後ろの時間を決めて話し合うことの大切さを思う。

しかし、暗くなってからご飯食べに行こうか、と言って大学周辺の食堂で食べながらあれこれ話すのが、楽しみであったりもする。

言われて初めて気づく。

書き出しがうまいよね

 

昨日の5限は修士論文に関する調査の報告でした。

今は学習記録のあとがきの記述分析をしています。

1年間で印象に残った授業について書いた作文から、生徒の志向や教師の授業のあり方を分析しています。

読んでいると「私は国語が嫌いです」という記述に注目してしまいます。

私としてはこの書き出しで来られると、読まずにはいられないわけです。「国語が好きになってほしいな」と思って授業しているからなんですね。全員が全員そうはならないのが当たり前だと言いながら、やはり意識ではそう思ってしまうのです。一度そうなると、なぜ嫌いなのかの分析が始まります。

 

しかし、報告を聞いていた先生が「書き出しがうまいよね」と発言しました。

私はそうか、と単純に納得します。あとがきの読者を教師と想定すれば、「私は国語が嫌いです」という書き出しは意外性を発揮し、読者の目を引くものになります。そのように分析していくと、この生徒、実は読者の興味を引く意味で、表現力が巧みと言うことができるのです。

 

「本音っぽく書けること」ってすごくないですか

 

私の授業で「今日の授業は眠かった」とか「国語は地獄だ」とかいう記述は、頻繁に書かれます(苦笑)。国語科教師のプライドとしては、生徒に苦痛な振り返りを書かせないようにちゃんと授業をしなきゃあかん、と思います。私は反省的に授業改善を考える方向の思考も持つことは大切だと思います。

一方で、この無邪気な記述は本音っぽさがあります(実際の生徒の心の中を覗くことができないので、「っぽさ」と言うしかありません)。この本音っぽさは、授業者にとって授業を振り返るための大事な記述になります。

そもそもあとがきは、授業について書くという時点で授業者と学習者の関係性に依拠する記述だという前提が生まれます。そのことを踏まえて考えてみると、ありのままを書こうとする生徒が一定数存在していた、ということができるかもしれません。それがどの位の割合なのか、他の先生の授業ではどうなのか、これ以上の分析は今のところできません。そもそも「っぽさ」指標しかないのでありのままかどうかも判定はできないのです。

 

が、とにかく、報告後に参観者に言われました。

「これ(本音っぽく書けること)ってすごくないですか。先生の授業がどんなだったのか気になります」

この発言を聞いた時に、やっぱりあとがきはその先生の授業の反映であり、その記述を読んでいくことは授業がどのようなものだったのかを生徒を巻き込んで知ることになるのだろう、と思いました。ポイントは「生徒を巻き込んで」です。

授業後の教師の振り返りの方法はさまざまにあり得ると思うのですが、学習記録は生徒の記録から授業を振り返る点で、一つのおもしろさを生み出しています。

今週の学び

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私が書くことは独りよがりでありながら、同時に、社会の中に組み込まれた一つに過ぎない。

「〇〇嫌い」を救いたい

私は、ある一定数の生徒が古典嫌いになるのはその通りだと思っています。

 

古典で教えることは「明確」だけど

これまでに私が中学校で扱った主な古典教材は、「いろは歌」「竹取物語」「平家物語」「枕草子」「徒然草」「おくのほそ道」「和歌(万葉・古金・新古今)」「故事成語」「漢詩」「論語」です。

古典と一口に言えないものもあるかもしれませんが、ひとまずここでは私が認識しているものを挙げます。

古典は小学校の学習指導要領でも明記されている通り、言語感覚を養う教材として音読が重視されています。個人的な感覚としても、上記の冒頭文はネットで調べなくてもスラスラと言えるのが理想だと思っています。そのため、私も音読や暗唱を重視する授業を展開してきました。

しかし、それだけでは中学校古典教育の指導として不十分だと感じます。なぜなら、市販テストや高校入試で古典に関する知識について問われることがあるからです。

国語資料集の古典の欄には、必ず現代とは異なる語句の意味や歴史的仮名遣い、係り結びに関する知識が掲載されています。このような知識を教えない教師はほとんどいないのではないでしょうか。教えるべきことが決まっている、だから古典教材を教えることは教師にとって簡単なことのように思います。

 

「味わう」とはどういうことか

しかし、教えることの容易さと学習者の意欲は直結しません。

先日、とある国語教育のサークルに参加しました。そこでは係り結びの教え方について話題となりました。みなさんは係り結び、どの程度授業で教えているでしょうか。

 

交流の結果、教え方は以下の3点あがりました。

  ①知識として定義やルールを教える

  ②本文中の使われ方を教える

  ③文章を読解する上でどのような役割をしているか教える

 

それぞれの分類の中にもさらに程度の差はあるかと思います。

例えば、③に関して、ある先生は係り結びの表現によって「語句が強調される」と教えることがあるそうです。文章の解釈に変化が起こることを教えるのです。

またある先生は、係り結びが使われるか否かで、どのような文章の解釈に違いが生じるか考えさせる展開を示していました。

私はどちらも実際の授業展開として成立するものだと思っています。

 

①もしくは②の段階の指導で教えたことにしている現状があるのではないかと思います。今回はたまたま係り結びでしたけれど、それ以外の古典の知識についても機械的に覚えるような内容となってしまい、本文を読み味わうことから離れて、無機質に教えることになっているのが現状ではないか、と私は思います。

私は専門外ですが、高校の古典の授業はもっとその傾向が強いように見聞きしています。大学入試への意識が働いているせいか、古典文法重視の授業は必ず問題点として挙げられます。そして古典文法の指導が、古典嫌いの要因としてあげることが多いのではないかと思います。一文を文法の知識を用いて分解解釈し、口語訳をし、それで内容を理解したことにする、ということです。

そこで、古典を学ぶおもしろさを感じることはできるのでしょうか。

古典を味わうとはそういうことなのでしょうか。

 

学習者の発見から古典の魅力を知る

国語科の限られた授業の中で、古典にばかり時間を割くことができない事実は現場で教えていた身として重々感じるところです。

だから多くを求めず、最低限必要な知識を教える授業を私は展開してきました。

結果、古典嫌いはどこのクラスにもいたと記憶しています。

一方で、古典作品から日本文化のルーツを知ること、純粋に今と異なる文化を知ること、多くの人に読み継がれるだけの魅力を見つけることなど、古典作品を読むことには生徒の知的好奇心を刺激する可能性も秘められています。

 

私はそのことについて生徒の学習記録から知ることがありました。決して私自身は古典の授業を作品を読み味わうような授業を展開していたとは思っていなかったのですが、生徒の中には古典作品から上記のような魅力を感じ、それを言語化している生徒もいました。それは古典作品自体に魅力がある、ということなのかもしれません。

古典作品に限った話ではないと思いますが、その教材のどうしようもない面白さを見つめる視点は、教師にとって必要な力なのだと思います。そこから授業を展開していくことで、学習者の「〇〇嫌い」を少しでも救えるのではないか、と思うのです。

今週は文学の秋です。

今週から中国文学演習は杜甫の「春望」の解釈に入ります。日本文学研究は源氏物語紅葉賀の自分の担当箇所の発表に入ります。どちらも膨大な先行研究があるわけで、知ろうとすれば芋づる式にさまざまな論考が出てきます。幸せですね(笑)。ひとまず今日は「春望」の疑問点をあげておきます。

 

杜甫「春望」における疑問点

1 いつの作句か(安禄山の乱との位置関係は)

2 なぜ「春望」はこれだけ有名な詩となったのか

3 30代のころの杜甫の詩とどのような違いがあるか

4 「涙をそそぎ」「心を驚かす」のは誰か

5 「烽火連三月」の「三月」の解釈の違いとは

 

 

文献研究の10年の変化

杜甫の詩と源氏物語を読む。

 

音読する、語句を調べる、古注釈を読む、先行研究を読む…

膨大な参考図書を行ったり来たり。

でもデジタル辞書も多くなって検索が便利になったよなぁという実感。

私が大学生だったのは約10年前なので、10年でこのくらいの変化、というのを体験から感じる。

それでも本がたくさん近くにあることは、知ろうとすることへのアクセスを簡単にさせる。

 

問いを立てる。

10月は歩く1カ月だった。

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木々の色合いの変化を楽しみながら過ごしている。

大きく移動を繰り返した9月までと少し行動を変え、

「腰を据えて」ということばを心に留め置きながら自分と向き合うことに意識を向けた。

 

心の向くままにやってみること

後半は対話をする機会も多く、自分に気づきをもたらしてくれる良い時間も多かった。

特に考えたのは、自分の行動のありかたである。

私のさまざまな行動をたどってみると「いいな」「おもしろいな」「挑戦してみたいな」に突き動かされていることが多い。

そういう自分の好奇心でたくさんのすてきな人に出会ってきたし、

それが私の成長を支えてきたのだと思う。

 

問いを持つこと

一方で、もっと大切だと思ったことは「問いを持つこと」である。
いや、問いは持っていたのかもしれないけれど、意識して持とうとはしていなかった、と言った方がいいのかもしれない。

これからは加えて、「なぜだろう」「何がこのようにするのだろう」という問いを持ちたい。

私が「なんのために」行動をするのか、目的を意識したい。

意識するというのは今までできていなかったことをするのだから簡単なことではないのだけれど、

問いを持つことは、これまでの私の行動様式に足りなかったことではないかと思う。

 

問い見つけることが研究のはじまり

この1ヶ月でいろいろ書いてみた中でうまくいかないことが多くあった。

自分が書いたものを読んでもらい、いろいろに聞いて歩くと、やはり問い立ての部分が話題になる。

研究とはそもそも問いがあって成り立つものだというのに。

問い立てを軽視している自分に気がついたとき、学習と研究との違いも自分の中に浮かび上がってきた。

興味関心があれば学習に取り組むことはできるけれど、自分の中で満足してしまうことが多い。

問いを見つけることは、誰かと共有することを可能とし、学習は外にひらいていく。

とても、とても、当たり前なことを言っていて恥ずかしいのだけれど、問いから研究ははじまるのだということを、ここに来てやっと実感する。

 

私は教室にいた人間なのだから、その時の問いをたくさん持っていたはずだ。

そして、それは膨大な学習者の足跡である学習記録の中にたくさん残されている。

そこからもう一度はじめてみようと思う。