放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

もっともっと、多様な子どもの姿を見る機会がほしい。

理想の子ども像を描きなさい。

目指すゴールを設定しなさい。

 

初任者の時に、もどかしさを感じた言葉だった。

教育書で出会ったり、先輩先生に指導を受けたり、

いろいろな場面で「そうだな」と思いつつ、

私は理想の姿なんて描けないとも思っていた。

 

だって、知らないのだから。

 

子どもの姿とは具体的にどんな姿なのか、

中学生でどの程度の力があることが望ましいのか、

学習指導要領に書いてある姿とは、具体的に言うとどうなるのか…

とにかくよくわからない、と思うことがしばしばあった。

 

今は出会ってきた中学生や他校の公開で見る生徒像から

なんとなくこういうことができたらよいだろう、というのは思う。

けれど、圧倒的に自分が勤務する子どもたち以外の姿を知らない。

それでいきなり教室に立った時、「どんな力をつけさせたいのか」という問いに突き当たる。

でも、本当に子どもの力を見取っていくにはもっともっと具体的な発言レベル、表現レベルで

こういう姿になってほしいなという願いのようなビジョンが必要なのだろうと思う。

そういう理想像をなしに年間の計画はたてられないのでは ないか。

 

だがしかし、理想像が見えない。

見たことがないから、と思ってしまう。

見えないものを想像する、ということも必要なのかもしれないが、

もっと力がついた状態というのを、実際に学習者の姿で理想像を持つという体験が

必要なのではないかと思う。

「研究個室」という〈自由〉が保障された環境で過ごす。

 

この学校は広い学校で生徒の数ほど個室があるのです。学校へ行くのにそこに個室がないというのはおかしいではないかと思うのです。勉強室、その人だけの勉強の部屋もないところが、どうして学びの場であるでしょうか。教室は教室であって個人のものではありませんから。

大村はま大村はま国語教室の実際 下』・2005.6.2・溪水社)

 

今日から筑波大学附属図書館は金曜日まで休館です。

夏季休業に入ってからこれまで、

図書館内の研究個室で本を読む生活が気に入っていました。

一旦お休み、ということです。

 

研究個室で本を読みながら、上記の話を思い出していました。

大村はまが講演中に「夢と思って聞いていてください。」と言いながら、

今の学校にはない理想の学習環境を語る場面です。

研究個室は自分の研究したいことに集中できる場です。

つまり、学校の中で個人の〈自由〉が保障されている場です。

 

子どもたちが個室を持って、自分の好きな本棚をつくり出した時、

どんな学びが創りだされるのでしょうか…

 

わたしも夢を見ています。

今週読んだ本

詩教材の授業をもう一度見直そうと思って、文学教材を扱った本を中心に読む。 

文学教材の新しい教え方 (21世紀型授業づくり)

文学教材の新しい教え方 (21世紀型授業づくり)

 

 

詩教育の理論と実践―初発の感想を生かす (国語教育叢書)

詩教育の理論と実践―初発の感想を生かす (国語教育叢書)

 

 

教科書を中心に見た国語教育史研究

教科書を中心に見た国語教育史研究

 

 

文学教育の新しい視点

文学教育の新しい視点

 
文学教材・感性の生きる授業 (授業への挑戦)

文学教材・感性の生きる授業 (授業への挑戦)

 
話題源詩・短歌・俳句―文学作品の舞台裏

話題源詩・短歌・俳句―文学作品の舞台裏

 

 

話し合いのコントロールは教師がすべきか。

大村はまの読書生活の指導記録を読んでいる。

一年生から積み上げた単元学習により、共同にそれぞれが調査したことを発表し合う座談会がある。

協同学習の試みがよく見えるすてきな単元だなと思う。

 

そこで大村は司会の役割を担っているのだけれど、

誰がどの本を読み、どのような内容が書いてあるのか、すべてを把握しているかのような進めぶりだ。

「話を本題にもどしましょう」といった発言もある。

かなりドライブの効いた座談会の進め方だなと思う。

 

そこで、話し合いの場における教師の役割について引っかかる。

教師は話し合いをきれいに収めようとして、発言者の本当に言いたいことを矮小化するようなことはしてないだろうか。

確かに時間の中で必要なことのみに焦点を絞って話し合うことは大切だ。

そのことを授業を通して共通理解させる意図もわかる。

 

ただ、ここで言いたいのは、教師の枠を超えた読みの可能性は本当にないのか、という疑問だ。

新聞紙が日常生活の一部ではなくなった。

北海道にいた時から新聞紙が教室や学校の掲示板に貼られるのをよくみていた。

たまたま近くに新聞を活用した実践を展開している先生がいたからだ。

つい先日も教室に新聞紙が貼られている学校を見た。

これは、新聞紙がもうすでに非日常化していることを意味している。

 

もう明示のことだけれど、新聞を取っている家庭は多くない。

学校で新聞紙を使うから、と言っても持ってこられない生徒は多い。

新聞を活用する実践は、そのことを踏まえなければならないと思う。

 

一方で、私もそうだが、電子媒体での新聞記事はよく目にするようになった。

同じニュースについて複数紙読めるし、離れた地域に住んでいても地方紙が読める。

新聞は取っていなくても、電子版の新聞を読んでいる人はいるだろう。

タブレットを使って新聞を読む。

もうそれがいいんじゃないかな、と思う。

 

新聞は社会生活を切り取って編集したものであり、

それを読んで考えて書くといった言語活動には

社会への関心を高めたり自分の考えを持ったりする効果があるだろう。

 

しかし、それは子どもたちの「日常」ではないことを確認しておきたい。

信じて疑わないことは、「変わらない」を選択する。

8月8日に山本純人先生と筑波大学でお話をする。

現職の先生や修士学生が来てくださり、

偶然の偶然で北海道の中納先生も参加し、

6人だけど、濃密な研究会となった。

 

今回の目的の一つは出会いの場とすることだった。

これはもう、大成功。懇親会まで行くことになる。

 

もう一つは今の学校について語ってもらうことだ。

おもしろかったのは「変わっていない」という話で、

やはり、前年度踏襲の文化は大きいなと感じた。

 

どこに仕事の重点を置いているかなんだと思う。

授業を持って、学級も持って、学校全体の仕事も持っている。

仕事として分けて考えがちだから、全体を細切れに仕事をして、

結局どこかは前年度踏襲にならざるをえない。

自分が担当する学級や授業は自分のこととして密接に生徒との関わりが大きい分、

力の入れようがある。

しかし、学校全体に関わる仕事となると、

ちょっと教師が持つ意識は異なってくるのかなと思う。

変化に耐えるエネルギーも関わってくる人が増える分だけ大きくなる。

 

建前としては、「全体のため」の仕事が最優先されるのだけれど、

「信じて疑わない」文化が良くも悪くも保守的な運営を促進するのかな、

と、話を聞きながらそう思った。

 

 

 

 

国立国会図書館の利用登録をする。

筑波に来たらしようと思っていたことがあって、

その一つが国会図書館に行くことだった。

 

春授業が終わり、やっと個人研究の時間が増えている。

一度国会図書館に行きたいと思っている。

今はまだ、好奇心で行動していることが多い。