放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

谷川俊太郎×山田馨「ぼくはこうやって詩を書いてきた」

少しずつ春らしくなってきた北海道。今日は雨。

先日,引っ越し先の図書館で借りた谷川俊太郎と編集者山田馨の対談本を読了。

ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る

ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る

 

 巻末は年譜になっていて,いつどこに行って何に感動したとか,誰に再会したとか,ちょっとしたエピソードがわかるようになっている。

対談の中には,「春に」が載っている詩集『どきん』についても述べられている。谷川さんにとって初めて子どもの読者を対象にしてつくった詩集ということもあり,どう子どもたちにアプローチするのか語られる。学校教育に対して批判的な見方も示し続けてきた谷川さん,子どもたちと一緒にさまざまに読んでいく。

「詩は理解するものではなく,味わうものです」という言葉に対して,「確かにその通りだと思う」,「味わうってなんですか」,「そもそも理解してなきゃ味わえないのではないか」などなど。

一人一人の考え方を持ち寄って,一つの詩を読んでいけたらなと思う。

 

書評コンテストとブックハンティング

読書指導の中で「書評」を書くっていう言語活動を考えるけれど,実際自分もやってみて実感するのは書評を書くのってむずかしいよなっていうことだ。

光村3年生の教材に竹田青嗣さんの「「批評」のことばをためる」というのがあるが,そもそも批評の語彙が日常生活にないかもしれないと思う。「これが好き」ってことは言えても,どんな点でどうだってことをなかなか伝えることが難しい。

そんなわけで,私の中で「書評」を学ぶことがここしばらくの学びたいことになっていて,その中で一つ目に入ったのが,明治大学図書館紀要『図書の譜』だ。

www.lib.meiji.ac.jp

2011-2013年度の紀要に書評コンテストの受賞者の文章が掲載されている。明治大学図書館に限らず,こうした大学附属図書館の大学生の読書活動を促進するための活動はどこの図書館でも見られる。これはそのうちの一つにすぎないけれど,学生の使っている語彙を具体的に知ることができるので興味深く読んだ。やっぱり書評を読んでいると「読んでみたいな」という気持ちがわいてくる。中学生が大学生の書評を読むとどのような反応を示すのか,また,中学生が読んでおもしろいと思う書評はどんなものなのか,新たな問いが浮かんできた。

 

さらに,2012年度の活動内容を見ると,「ブックハンティング」という活動があった。学生が直接書店へ出向き,学生自身が直接本を手に取って選書する活動である。確かに,ほしい本は書評や本の情報に触れて読んでみたいと思うことと,直接書店へ出向いて目で書棚を眺め,手に取って帯やまえがきを読んだりして選んでいる。選書の基本というか,「本を買いに行く」行為をまるごと活動にしてしまう点でおもしろいと思う。

ふと,自分の経験を振り返ると,図書委員を通して学校にリクエスト本を募集する活動との大きな違いを感じる。地域によっては書店や図書館が近くにないという物理的な問題もあるけれど,そもそも人の「読みたい」感情は一つの企画だけで賄えるものではないよなと思う。

大学院を修了しました。

昨日の学位授与式を終え、北海道に戻りました。

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新聞報道もあったみたいですね。新しい中学校で働きます。

毎年ひどくなる引越事情ですが、もう3月に引っ越すのは諦めた方がいいのではないかと思うくらいです。

ここには書けないけれど、落ちつかない日々の中では感情の起伏もあり、移動距離がある北海道の転勤はなかなか大変です。

 

豊洲で翔んで埼玉。

ららぽーと内にあるシネプレックス豊洲で翔んで埼玉を見る。

 

夕暮れは人気のスポット。みんな写真を撮る。外にはボール一つで遊ぶ家族がいる。

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地下鉄駅から大々的に働き方改革を銘打った建築中の建物が目に入った。

そんな場所、豊洲

 

前評判通り、みんなでゲラゲラ笑いながら見る映画。たくさんのオマージュが散りばめられていて、それに気づく度おもしろい。同時代性というか、日常目にすることが映画になっているとそれだけで惹きつけられる。フィクションだから思い切り笑える。意味はなくていい。

勤務校の最後の年、演劇で村の特産物を実物で出した瞬間に観客が沸いて嬉しかったのを覚えている。楽しんでもらえたらそれでいいな。

 

それにしても最高にばかばかしい映画。役者さんのコスプレなりきり具合がすばらし。こっちにいる間に見られてよかった。

 

 

ソメイヨシノみたいだな。

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関東にきて驚くのは、ソメイヨシノの数と、その枝ぶりだ。

山と海の間で過ごした私は、桜といえばヤマザクラで、もともと白い花を咲かせるソメイヨシノは見慣れない。

桜の季節になると、まじまじとソメイヨシノを観察して、どうしても接ぎ木で育った違和感を見つめてしまう。

ソメイヨシノエドヒガンとオオシマザクラの雑種で、一本の木から接ぎ木を繰り返して増やされたらしい。つまり、クローン。自家不和合性と言って、受粉しても種子ができない。だから、遺伝子が同一で、一気に開花するわけだ。

 

接ぎ木の違和感は、木の幹から突然生えているように細い枝が出ていることから感じる。よくみると、こんなとこに生えたか、と思うくらい小さな目がいたるところにある。

 

もとの木に接ぎ木をして増えたソメイヨシノを見ると、もともと根を張って木となったサクラが気にかかる。なんだか、幹にぶら下がってこんなに増殖し、ごめんねって気持ちになる。一つの言動に群がって、あーでもないこーでもないと撒き散らしてる人間みたい。

 

できることなら、ちゃんと自分で根を張って、ささやかでも花を咲かせられるといいのだけれど……ね。

他人のせいにしてばかり

現状が上手くいかないことを,すべて他人のせいにしてはいないか。

行動しているのはわたし。

選択をしているのもわたし。

お互い関わって生きていて,わたしの外への不満は,反対に私への不満でもある。

どこかで他人のせいにして選択しているわたしを見ないふりしていないか。

問題はもっと別な場所にある。

歩み寄ることも,譲歩することもできるかもしれない。

ぷっつりと 

断絶することで

解決したふりをしようとしていないか。

 

 

いろいろなハプニングがあって,感情が落ちていく。

大切にしたいものを捨てたくなる衝動は,昔からの悪い癖だ。

自分をコントロールすることがむずかしい3月の夜。

大学院での研修が無事に終わるっていうのに……

こんな夜を拾い上げるものは何だろう……。

身体を使った学び。

今日読んだ大村はま実践は、長与善郎「地蔵の話」を劇・放送劇・シナリオ・紙芝居・スライドにさせる実践である。

 この実践を読んで思い出すのは、UD研究会と獲得型教育研究会である。

どちらも曖昧な情報でしかないのだが、UD研究会に参加した時に「視覚化」「焦点化」「動作化」「共有化」の4原則があって、実際に国語授業の実践で「動作化」の授業をするのを見たことがある。

獲得型教育研究会では、学びをどのように深めるか、表現するかをことば・もの・身体に分けて実践を紹介している。

教育プレゼンテーション 目的・技法・実践

教育プレゼンテーション 目的・技法・実践

 

読解を行う上で、劇化や動作化を通して読みを深めることの実践は現在多く見られるわけだが、実際の授業では、そこまで多くの実践が繰り返されているとは、どうも思えない。

 

明治図書の『国語科重要用語辞典』でも、劇化について渡辺貴裕さんがその解説している。 

国語科重要用語事典

国語科重要用語事典

 

 一時、戯曲を用いた国語科の学習「戯曲などを読む」「劇などをする」は、1977年版の中学校学習指導要領からなくなり後退することになる。再び文言化されるのは2008年の小学校で「物語を演じたりする」であり、国語科授業における劇化の実践は空白の時代があることがわかる。

 

大村はまも述べているが、劇化の授業を行う時、本来の目的を見失いやすい。「深く読み込むため」に行っている劇が、「よい劇をつくる」ことが目的となってしまう。そして、教師側が演劇に対して抵抗感をもっていること(私なんかも演劇なんて小学校の学芸会以来やったことがなかった)、だから方法が確立されず、実践するまでにいたらないことが原因だと考える。1単位時間で構成するのも難しい面もあるのだろう。

そこでインプロ(即興)の発想になっていく。どうしても「演劇」というと完成度を高める方向に向いてしまうが、インプロはその場で考えて、失敗も許容する素地がある。何度もトライアンドエラーをくり返す中で気づくことを大切にしたい。

 

身体を使った学びは多くの論者から必要性が指摘されている。大村はまのことばを借りれば、文学作品を繰り返し読ませ味わせたいなら、「繰り返し読みなさい」「よく味わいなさい」と言わずして、子どもたちが作品に、作者に、じかにぶつかっていくように仕組む必要がある。

私は,さらに子どもたちが自分の学び方の一つとして実感することを大切にした身体を使った学びを手にすることができたらいいなと思う。