放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

質的調査への共感

今日の作業内容は二つ。

一つは日本語史のレポートを書く作業。一つは質的調査に関わって読書。

間に修士論文に関する進捗を報告し合う時間があり、今考えていることを少しだけアウトプットする。

 

 

 
エスノグラフィをするとき、ディテールを通じて個別事例について話をしているのだけれど個別事例には留まらない水準が現れるということ」

自分の体験に当てはまるようなことを言語化されると、ピカッと光ったように文字を追う速度があがる。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
 

調査の過程で調査者も変化していく。 この本ももう一度読みたい。

やってみる、挑戦する

授業づくりに限らず、何事も自分でやってみることが大事である。

やってみると細部が見えてくるし、どこが難しくてどこに時間がかかるか、どこがこの時間の一番の肝でもし時間が足りなくなったらどこを削るか……いろいろなことが見えてくる。やる前から何かを言うには、実感が伴わない。やった人だからこそ見えること、言えることがある。自分を当事者の位置に立たせることが物事を考えるスタートになる。

どんなに前に進みたいと願っても、ペダルをこぎ出さないと何もはじまらない。

学びの場と記録

中学校では、紙に学習記録を残してきた。このことを可能とするのは、学びの場の大半が学校を定点として行われてきたからだと思っている。学校には自分の机と椅子が置かれ、1日を過ごす当面の場所がある。さまざまなツールは学校にある。家から毎日何を持ってくるか、どのように記録を残していくかなど、さまざまなルールもある。

学校から離れてみると、学びの場は多様である。街中いろいろなところで読み書きができる。私はカフェが好きで、いくつかのカフェと図書館を移動しながら作業をすることがある。そこには私以外にもパソコンに向かう人、テキストを読み込む人がいる。何か新しいことを学ぶときは、自分から外に出ていくことだってできる。

ただ、移動して学ぶ時、どうしても同じツールが手元にないことに気づく。一定の記録を残すためには、いつも携帯していることが必要だ。私は紙ではなく便利なタブレットを使うことも多い。大学院授業の記録は、プリントやメモも含めてファイリングし、自分の研究室で保管している。自宅にも大量の記録があるけれど、ここは正直生活と一緒になってしまうこともあり、こまめな保管には向かないと感じる。

 

そんなことを考えていると、紙を冊子にした学習記録は、学校という環境の中で機能することに気づく。どこか学びの定点があるというのは記録を蓄積しやすい環境なのだなと思う。また、学ぶ場がどのくらい流動的なのかによって、記録のあり方は変化していくのだな、と思う。

12月からずっとクラッシュしている。

原因はわかっている。必要な時間を自ら手放している感じ。でも、これが本来の姿だ。

記述の読解

共同研究のワークシートやアンケートの分析を繰り返す中で、記述の読解が回を経て変化していくことに気づく。今朝はふとした瞬間に見落としていた視点を思い出して、それがデータの見方に変化を与えていることに気づく。その上で、学習記録の生徒の記述を読むと、過去に抽出したカテゴリーとは違った枠組みが出てくる。

学習記録の面白いところは、自分の学びの内容だけではなくて、教室全体の記述や、教師の授業構成にも入り込んだ記述が出てくることだ。時を経れば経るほど、授業を見る目がついてくる生徒もいて、生徒は1番の批評家だな、と思う。

そんなことに気付くか気付かないかも、時間と経験が織りなす目があるからなのだ。

「作ること」と学びのプロセス

秋学期の試験期間ということで、図書館は課題に取り組む学生が多く見られる。私も課題の締切が大詰めで、今日は個室にこもってレポートを作る。 

 

読む技術に関する課題では、本の体裁から情報を読む話題が出てきた。1月のレポートで「学習記録と本の体裁」について考えており、学習記録は本を作る過程を経験する学習なのだ、と今の私は認識している。「本を作る」ことで本の情報がどのように構成されているかを学習し、本を読む観点が増えると考えている。

そのことから、改めて「作る」という活動と学びのプロセスについて自分の書いてきたことを読み返す。

keynote.hatenablog.jp

 その派生でパパートの『マインドストーム』を読む。

「学習は発生的に理解されなければならない。」

マインドストーム―子供、コンピューター、そして強力なアイデア

マインドストーム―子供、コンピューター、そして強力なアイデア

 

 自分がどういう考え方に今いるのかを、レポート課題に取り組みながら見つめている。

情に流される

今日は2年生の歓送会だった。私は企画者に導かれるままに自分の仕事を淡々と。企画者の活躍がすばらしく、一緒に仕事をしていて単純に楽しかった。他の人から見ればこの程度を「情」と呼ぶにふさわしくないのかもしれないが、学生として短いながらも同じ時間と空間を共有すると感じるものがある。教員には見えない空気というのが学生同士にはある、ということを実感した日。