放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

群像の中で描かれていく私たち。

 最初に断っておくと,これから書くことは断片的なメモのようなものであって,私個人の中で一つ一つの作品がどう繋がっているのかを勝手に繋げたものに過ぎない。一方的なまとめ方だと思うので,繊細に一つ一つの作品を大切に思う人,これから小説や映画を見ようと思う人は読まない方が良いと思う。

 

 

 

 

 

映画「キリエのうた」を見ながら思っていたこと

  • 函館に住み始めて困ったなあと思うのは,観たい映画が公開されてすぐに観られないことだ。映画の公開が決まって,前売り券を買って,公開初日に映画を見にいこうとしたら,公開している劇場が札幌にしかなかった。まま,こういうことはよくある。映画館や図書館,コンサートホールなど,文化を受容する箱があるだけでそれはとても有難いことなのだと思い知る。人口が多いということは,それだけ多様な文化に触れる機会も多いということだ。もちろん函館でしか知り得ないことだってたくさんある。
  • 岩井俊二作品はコロナ禍で閉鎖する直前の映画館で見た「ラストレター」以来。一貫して描かれるその瞬間の美しさと,新宿・大阪・仙台・石巻・帯広の街を交差する世界に3時間ワクワクした。全体的に題材として描かれる世界は暗くて嫌悪感もものすごく残るのだけれど,雪のシーンが美しくて印象に残る。もちろん,キリエの歌声も。
  • どうしても気になってしまうのが,東日本大震災をどう取り上げるのか。これは新海誠の「すずめの戸締まり」を見た時にも思ったことだ。

     

  •  貧困が再生産されてしまうストーリーをどう受け止めてよいのかわからない。生まれ育った環境の中で,色々な嫌悪感を抱きつつも,親から手渡されるものをどう受け止めて生きていくのか。弱者だと決めつけられた人が出てくる作品は少し手を伸ばせばいくらでもある。一つ一つ全然違う物語だということは前提の上で,それでもなお,外からはよくあるストーリーとして一括りに解釈されてしまうことに問題がある。
  • 誰とも共有できないと思っていた価値観を「繋がり」に求めることをどう考えるか。言葉を尽くしても語れない関係性というのが世の中にはあって,それはまだ,「友達」「恋人」「家族」とか,わかりやすい言葉にもなっていないことであり,言葉にもなっていないのだから,当然,他者にわかってもらえない。司法の前では「正しく」あることができない。そういう生きづらさを感じる人々を描く作品がたまたまなのか,私の前にある。