放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

札幌西線を歩く。

”街ブラ”という発見の方法

 NHKの番組「ブラタモリ」に詳しいわけではないが,街をぶらぶら歩くことで街の何かを発見する行為は,TV番組の一つのパッケージになっている。そこでは,ただ単に興味深いお店の紹介や街の人々にスポットを当てるだけではなく,街の持つ歴史的な背景や新たな価値の創造を見出すことがある。

 探究の授業で「実地調査」(フィールドワーク)に取り組んでいる。探究活動では,情報検索でさまざまな問いが簡単に明らかになってしまうが,それだけでは気づかないディテールやストーリーが世の中にはあるのだとも気付かされる。

f:id:keynotemako:20231105065124j:image

鑑賞体験と創作意欲のプロセス

 甲状腺治療の定期通院のために札幌を訪れた。秋の紅葉シーズンで,人出も多い。血液検査とエコー検査を終えて,診察までの空いた時間に西18丁目付近をぶらぶらする。

 おしゃれなカフェでランチを済ませ,友人が好きなカヌレをお土産に買う。店が開いているな。それだけ,人の出入りがあるということか。

 時間が余っているので,流れに身を任せて美術館にも行ってみる。

 

 特別展2展が行われていて,日本画魯山人展の人が圧倒的に多い。前に来た時はサンリオ展だったから(そこと比較するのもどうかと思うが),年齢層が極端に高いと感じる。子どもを連れた家族のおでかけ候補にこの企画はならないのだろうな。

 みなさんが熱心に器を見ている姿を,見ていた。少しだけ,断絶を感じる。

 

 私が面白かったのは,魯山人が影響を受けた日本画の方だった。12歳の審美眼ってどこでどう育まれるのだろうと思う。一つの作品群に影響を受けて創作意欲に繋がっていく。こうしたエピソードは珍しくはないものだろうが,その一連のプロセスには人としてどんな衝動があるのだろうか。

 私にもいろんな衝動がある。それとこれは,同じなのかな。違うのかな。そういえば日本画ってどのように描くのかイメージがつかないな。描いたことないな。体験はいろんな自分に気づかせる。

イメージからの打破

 むしろ面白かったのは,もう一つの方の特別展だったかもしれない。これまで多くの人が美しいと思ってきたものを美しいものとして描きたいのか?その枠組に捉われないで新しいものを産み出したいのか?あなたはどっちなの?そんな問いかけの街ブラだった。

【特別展】揺さぶる絵 変貌する日本画のイメージ | 北海道立近代美術館

 

 

『学級経営の教科書』を読み始める

学び直しを恐れずに進む

 職場環境が変わって半年,考えさせられることが多くなった。今まで当たり前だと思ってきた慣行がそうではなかったり,見通しもなく急に提案される初見の学校行事だったり,即時その場で対応して何とか乗り切っている(失敗している)感じだ。力のあるソロプレイヤーが多い職場では,個人の先生が自律して立ち回れることが期待されている。

 しかし,実際には,私は今の学校においては経験のない初任者教諭である。どうしても自分の力では埋められないものがある。借りた力は,どこかで必ずお返しをしようの精神で,チームの力で問題解決のプロセスを歩んでいると言える。本当,借りた力は,どこかで必ずお返しをしよう。そして,ちゃんと失敗から学ぼう。

いわゆる私は「狭義の学級経営」論者で「やさしい先生」だった

 そんな状況の中にいると,学ぶことは切実さを増す。困っている時ほど,何か現状を打破する方法はないものかと考える。「教育とは何か」とこの半年で何度思ったことだろう。

 一昨日Amazonのおすすめから届いた白松賢『学級経営の教科書』の第一章,第二章を読んで,考えさせられることが多い。「先生,もっと怒ってください」と言われる私は,この本で言う「やさしい先生」で,秩序化の計画的実践に大きく成功しているとは言えないのだ(=生徒にとっては頼りない先生なのだ)と思う。

 にも関わらず,もう一つ致命的なのは,私が志向する学級経営観が「狭義の学級経営」であることだ。要するに,教科指導のために集団を統治することを目指している部分が大きいのである。一方で,よく言えば柔軟に,悪く言えば中途半端に,「自発的」で「自治的」な方法を選択するので,結果として無秩序になる場面が生じてしまうのである。

 なるほどなあ,なんて呑気なことを言ってはいられないのが現場である。PDCAサイクルのDO!DO!DO!に常に立たさせているのだから,難しくても苦しくても行動するしかない(状況によっては行動しないことも選択をしなくてはならない)。

 奇しくも11月。問題がこれまで以上に顕在化する今だからこそ,現状と対峙することが必要となる。

8月13日(日)北海道新聞を読む。

8月13日(日)の北海道新聞を読む。

  • 放射性廃棄物の最終処分場選定に向けた文献調査
  • 原発処理水の放出計画,それに伴うホタテ価格の影響
  • 戦場体験者との対談
  • 無名の人たちの個人の戦争体験,証言をいかに残すか
  • 苫小牧・厚真等に見られる「トーチカ」

 他にも地域のいろいろな情報があるわけだが,書評欄も今週はキーワードが一貫している。

日本国語教育学会に参加する。

 8月10日,11日と筑波大学附属小学校で日本国語教育学会に参加した。その中で数井千春先生が「平家物語」に関する実践をエピソード語りの形式で報告されていた。「平家物語」の中にある鎮魂や戦を生きた人々の想いを読み取りながら,「ほんとうの言葉で語ること」に真正面から向き合って葛藤されている先生の姿や子どもたちの語りを読みながら,そこに居合わせた人は何も感じずには帰られないだろう。

 どんなに伝えようとしても,わかり合えないこと。それでも知ろうとし,自分の感じたこと考えたことを相手にことばを尽くして語ろうとすること。時に,そのことばが自分の思いと反して相手に伝わり切らなかったり,思ってもみない方向で理解されてしまったり,思いをぶつけるだけで逆に争いの火種となったりすることがある。それでも,教室で起こったことに目を背けずに残そうとした先生方の実践の記録は,どの報告も尊い

 

 雨によって肌寒いくらいの函館で,北海道新聞をめくりながらこの夏のことを考えている。

国語研究会夏の勉強会に参加する。

渡島国語研究会夏季学習会

 7月28日午後,地域の国語研究会の夏季学習会に参加する。春の学習会からの継続参加ということもあり,少しずつ研究概要や実践内容が見えてきて研究会の一員としての参加意欲が湧いてきた。

 基調講演が1つと提案が3つ。それぞれの中学校でどのような実践家がいるのかを知ることができた。加えて,小学校実践については,教材自体に触れることも私にとっては貴重な経験である。春の学習会で素材研究をし,7月に実践したものを記録として残す。このような,長期的なスパンで複数回の検討を挟んだ実践は,それだけで実践の厚みが生まれる。丁寧に学習者と教科の専門性を結びつける授業者でありたいと思った。

青年国語研究会夏の学習会

 7月29日10:30頃会場に着く。月1回程度オンラインで開催している研究会の対面会(参加者はスピンオフと呼ぶ)。お昼休憩を挟んで17:00まで。ひたすら対話なわけだが,オンラインでのそれぞれの実践や思いがつながっていき,それぞれの先生によってまた新たなものとして形作られていくのはおもしろいなあと何度も思う。

 青国研は,どの学習会よりも子どもたちが書いたものを読むことに価値を置いているので,参加しながら私ももっと学習者の言葉を読みたいな思っていた。その点から考えると,現状は教材をどう授業化するかとか,評価をどのように行うか,といった教師の指導性に時間を割いていることがわかってくる。もちろん教師の指導性も必要なのだが,学習者の思考や表現と合わせて深い学びの場が形成されていくことを考えると,両方の思考のクセを意図的に持つ環境が必要になるなと考える。

ワールド・クラスルーム

 夜は花火大会の喧騒を逃れて,森美術館へ。20周年記念の企画展である。映像作品が特に重厚で,閉館ギリギリまで見入る。

 日中の先生方とのやりとりで「自分の体験していないことをどう語っていくか」や「言葉で表現することだけが探究なのか」といったやりとりがあったので,その言葉に引き寄せられて見るものが多かった。

イー・イラン「TIKAR/MEJA(マット/テーブル)」2022

書くこととどう向き合うか。

 

 「時間がない」を理由に書くことを諦めつつあったので,この本に励ましてもらおうと再読する。今回は後ろから読んだので,論文を執筆することへの筆者の哲学が読み取ることができ,新しい発見だった。この本,自己啓発的な本だけれど,書くこととどう向き合うかという筆者なりの生き方の本なのだなあとも改めて思う。

僕は,長年スケジュールを守って書いてきた。僕の原動力になっているのは,先々の論文や書籍の刊行予定ではなく,「ちっとも書きたくなかったし,本当はベーグルを買いにいきたかったんだけど,今日もちゃんと書いた」という日々の小さな勝利の方だと思う。(p.154)

  日常生活には書くことよりも,自分を豊かにするもっと大切な時間もあると筆者は言う。思いついたときに書くような「一気書き」の生活をしていると,せっかくの大切な時間を棒に振ってしまうことになる。締め切りに追われて書くことになる。すると,執筆作業は継続したものにはならない。終わった後に書き切ったことへの燃え尽き感が残ってしまって,なかなか次の執筆に向かないこととなる。心理学者である筆者の行動分析学の考え方もベースにあるのだろう。

 大村はまの学習記録実践に触れていると,「筆まめな人になる」という言葉に象徴されるように,毎時間書くことが生活に根付いていく。学習者全員が毎時間切実に書きたいことがあるわけではないだろうけれど,書き続けることを手放さなかった教師としての信念が学習記録という形で残されている。それは,少なくとも一部の国語科教育研究の資料として価値がある。

 では,限られた時間に何をどれだけ書く人になれるのだろうか。

 今日は東京で青年国語研究会である。

複数テキストを用いた国語科授業の勉強

 大学院の演習で,共通テスト問題を読んで,自分で作成してみる課題に取り組んだことがあった。いろいろ授業観について考えさせられた記憶がある。

keynote.hatenablog.jp

 学力調査の変遷を見ていくと,複数の文章を読んで考える問題が当たり前になっている。このことが教科の先生と話題に上る。もはや,一教材で授業を終えることに対しても「これでいいのか感」があって,定期テストでは,教科書教材以外の初見の文章を用いて複数テキストを読む問題を作ろうという学校が多くなっている。

 ただし,複数テキストの問題生成の過程では,作成者が関連する教材を読む量が多くなり,時間がかかることも問題として上げられる。教育工学のいくつかの研究では,そうした問題を解決しようと,関連する教材をピックアップするようなシステムの開発も進んでいるらしい。研究っておもしろいなと思う。

www.jstage.jst.go.jp

 探究(総合)の授業では,複数の文献を読んで評価する学習活動が設定されることもある。論文もデジタル化されているので,資料を取り寄せなくても端末さえあれば読めるのもありがたい。

 一方で,自分にとって重要度の高い情報であるかの精査は学習活動として難易度が高いものだと思っている。どのようにして学習者が情報の軽重を見極めることを学んでいくことができるだろうか。検索をかけていて,お茶小の授業構想が面白そうだなと思う。

cir.nii.ac.jp

「信頼性や有用性,論拠の確かさ,テキストから推測される書き手の信念 や意図,動機,立場などに照らして,各テキスト内容に留保をつけたり,割り引いて考えたり,順位づ けしたりすること」 小林敬一(2010)「複数テキストの批判的統合」『教育心理学研究』58号 pp.503-516

  なるほど,複数テキストを読む際の「重み付け」とはこのように定義されるのか,と思ったりしている。

 今日はここまで。

大学院修了後の自分の現在地。

論文を書くことは生き方を考える問題だった。

 2020年,新型コロナウイルスの影響で学校が休校になっていく前後,私は大学院を修了したばかりだったので,現場に戻ったらたくさんの実践をして,論文をいっぱい書くのだ!と思っていました。査読論文の投稿にもチャレンジしていましたし,ギラギラしていました(笑)。

 今は,その気持ちが薄れています。なぜかというと,日常にやるべきことがありすぎるからです。私は国語科の教員ですが,授業で言えば,道徳や総合の授業も考えなければなりませんし,担任になれば学級経営や生徒指導も,学習者の安心して学べる環境づくりのために重要な業務です。中学生の学校生活をより充実したものになるために欠かせないものとして部活動もあります。学校運営上,自分に与えられた職務もありますし,教科指導の実践だけに力を入れて行なっていくには,一般教員としての働き方には多少無理があります。中学校の教育現場で働くとは,そういうものだなって思っています。

 実践をすることは,そもそもその質をある程度高めたいという教師としての欲望と付き合っていくことになります。もっといい授業をしたい,もっと力のつく授業はどのようにできるのだろうか,日々そんなことを考えます。しかしながら,日常のやるべきことをやっていると,明日の授業をどうするかを考えて,研究課題を意識したり,課題に関する先行研究はまともに読めないのです。少なくとも私はそうです。

 となると,実践の質を高めるために,教材研究をすることや,単元構想を考えることに時間が費やされていきます。目の前の学習者のために,明日の授業をどう作っていくかが日々のミッションになっていきます。実践者として最大限力を発揮したいという願いが教師として生きる時に最も大きくなっていくのです。

 ここまで書いて,大学院修士課程修了以後,特にコロナ禍から元の教育活動を復元させようという流れの中で,ずいぶんと研究分野から気持ちが離れてしまったなぁと実感します。研究論文を書くことについては,実践を先行研究の文脈の上で位置付けるためにも重要なことだと考えていますが,36歳の私が,果たしてこれから何をどれだけ書けるのだろうかと考えてしまいます。

 夏休み中は,これまでの国語科教育学研究のレビューを見たり,いろいろな人にお会いしながら自分の軸足をどこに置くかを考えたいと思っています。