放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

説明が長い、から考える授業へ。

初任時の授業を振り返ってみた。

 

ありがたいことに、私には拠点校指導の先生が週に1度のペースで私の授業を参観に来られた。

校務分掌のこと、生徒指導のこと、授業のこと、困っていることを聞いてもらいアドバイスをもらえた。

特に自分のためになったと思うことは、客観的に授業を観察して言語化してくださっていたことだ。

 

国語科専門の先生ではなかったけれども、「課題が明らかになっていない」「説明が長い」「生徒の活動を増やす工夫があるとよい」といった記述が目立つ。

1年目に終わってみて気づくのだが、私の国語科授業はスキル説明の授業であり、体験させたり、理解を深めたりする活動が少なかったと思っている。

とにかく、説明・指示・発問が典型的な授業だった。

それで1時間を「もたせる」感があって、テンポもいまいち、まったりする生徒の様子が見られている。

教師があらかじめ用意した解答にいかに気づいてもらうか、そういう授業だったと思う。

言語技術の意識みたいなものはあって、例えば短歌のこの時間では「句切れ」を扱おうとかいう意識はあるが、「句切れ」とはそもそも何か、どうして存在するのか、これを生徒が知ることによってどのような知識の広がりがあるのか、短歌を読む上でなにが重要なのか、そういった問いが自分の中になかったような気がする。

あったとしても、明日の授業の発問を考えることで精一杯で、何かの本質を突き詰めるという暇は私にはなかったのだと思う。

定期テストや成績提出など、締め切り仕事もあるとなれば、より一層、思考は日常の中で埋没していった。

1時間授業することに不安で、ワークシートも作っていた。ワークシートにハマる罠にまんまと引っかかるのである(その中のワークシートで昨年も使っていたものはない)。

 

とにかく、思い切って活動させたり、体験させたり、ということができなかった。それだけの時間を費やして学習の質を保てるほどの技量も思考もなかった。

 

今は「これ」と決めたら、とことん繰り返し、2段階くらいでレベルを変えて体験するくらいのことはできると思っている。それから、生徒の反応をよく見られるようになってきて、生徒に聞きながら発問や活動を変えることもある。柔軟性が出てきたと思う。

 

それでもやはり、言語事項の授業は教えることが明確で、説明・指示・発問を基本とした授業は自分にとってやりやすい授業だった。たぶん、多くの人がそうだと思う。それで、うんと読む授業よりも、言語事項を扱う割合が多いカリキュラムになる。

 

でも、それではいかんのだ。

16日に発表された大学入学共通テスト(仮称)の問題が授業でも課題となっていて、改めて思う。

 

大学入学共通テスト(仮称)の国語、数学の問題と解答


これは授業のあり方を考えるための一つの材料にすぎないけれど、この問題とまじめに向き合えば、授業の問いの質も変ってくるだろう。少なくとも、一問一答だけではすまされないことはわかっている。

同じようなことが、PISAの問題や全国学力学習調査のB問題を読んだ時に感じたものだったと思うが、どれだけ授業に反映されてきただろうか。

 

やはりもう一度立ち止まって考えてみなければならないと思う。