放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

スタンダードってなんなのだろう。

どうも締切間際の過ごし方が苦手です。

論文はすでに9割書き終わっていて,修正を残してすでに山場を越えました。あとは,はじまりとおわりを整えるだけなのですが,ここが一番難しかったりします。

真ん中の部分は,まぁ,書きたいように書けるんです。でも,最初と最後っていうのは,はっきりいってそこしか読まない人もいるわけです。だからちょっと緊張します。読む人のことを浮かべると書けないこととかもあり,慎重になることも多いなと思います。

そんな感じで停滞傾向を見せると,一気に書くスピードが下がります。また,これまでの勢いが輪をかけて自分に変な余裕をもたらしています。これは私の締切仕事前のあるあるです。

それとともに,スタンダードってなんなのだろうなって疑問もめきめきと沸いてきます。論文の形式枠に収めるように書くことを学びながら,わかりやすく書こうとすればするほど,あれこれ浮かんでいたものは手放さなければならない瞬間に出会います。

そぎ落としてアスファルトの道路を作ってみたものの,見渡してみるとどこも同じ道ばかりなどこかの都市のようです。車は走りやすいのかもしれないけれど,ここはどこなんだろうと一瞬自分の居場所を見失うような,そもそも自分なんてものがなくなってしまったかのような感覚になります。適応するのは簡単だけど,そこには置き換えられた価値観が植えられていく。

なんて,そんなこと言っても書かねばなりません,が。

 

教室にいる先生はいつだって孤独で。

研究のいいところは、他者にひらけているところだなぁと、改めて思います。

もし論文を書く機会がなければ、教室の出来事も、子どもたちが書いたものも、基本的には教師と学習者にしか共有されません。書くことによって、初めて教室外の誰かと共有することが可能になるのです。

時に、教室の事実は残酷ですが、その認識も含めて、誰かに伝えようとするから得られるものです。

こんな当たり前のことを、12月の半ばになってひしひしと感じるのでした。

あなたが元気になれる時はどんな時か?

インプロワークショップをしていて,なんだか元気になる体験があります。

自分でも想像できなかった思いもよらぬ展開に出会い,驚くと同時になんだか笑えてくることもあります。

なんてことはない出来事に心を動かしているうちに,気づいたら思考も動いている。

そういう体験があります。

 

自分の心がワクワクして何か「やってみよう」という気持ちになれることは,また,次の機会を自分で求めるようになります。

自分のなりたい姿に近づくために行動しているとき,人は元気でいられるのではないかと思います。

では,自分が元気になれる時ってどんな時なんだろう?

自分はどうしている時に「やってみよう」と思えるのか?

 

インプロを知ってから,「やってみたい」という感情と向き合うようになって,

「やってみたい」という感情を大切にしようと考えるようになりました。

 

論理の文章なんだ。

修士論文提出締め切りまであと1カ月になりました。進捗は相変わらず鈍速で…まだまだ突破口が見えない不安がありながらも、理想100%で最初から最後まで書けない現実を受け止めながら進みます。いや、60点も取れていない気もします…。自己評価はいつもあてにならない。だから、誰かのフィードバッグが必要なんだ。

 

論文の指導を受けながら、はっと目を見開く瞬間が度々あります。最近は、「論理」という言葉が学びの言葉。あるゼミで、卒論の内容について発表した学部四年生に対して、ある先生が「論理が何よりも大切です」とおっしゃっていました。そうか、題材とか、問題意識とか、先行研究へのリスペクトとかよりも先に、論理なんだ、と思って少し驚いたのを覚えています。そしていざ自分の修士論文になってみても、やはり大学の先生方が何よりも大事にしているのが章構成でした。いかに論文全体がひとつの筋に沿って作られているかが問題なのです。学生は文章が書けないこと、読めないことに苦しむわけですが、面談ではそんなことは問題とされません。まあ、限られた時間の中で教えられることが限られているし、また、修士課程の学生なのだから、そんなことは自分で学んでよ、ということなのかもしれませんが、学生と指導者の間にある問題意識にはギャップがあるのは確かなようです。

 

さて、論理が1番に重要視される教育観の中で、学生は何を学び取っているのでしょうか。研究は常に疑いの目を持ち、絶えず更新されるべきだということなのかな。この辺、実感ベースの思考の癖を持つ私にはハードルで、論理を重視した文章を書きながら、本来はザラザラした感触がヤスリでつるつるに均された感覚が拭えない。その感覚に気づいた瞬間、急におもしろくなくなる場面が多々あります。うーん、研究って楽しいものだったんじゃないかな。どうしてこうなっちゃうんだろう……こうして迷走の時間に突入するのでした。

まあ、今はいいから書けって状況ですが、でも楽しくないと続けられないのですよね。

日常がほしい。

いつからか、イベント嫌いの自分に気づく。

お祭りは大好き、みんなでワイワイ楽しむのも好き。でも、祭りの後に冷静になってみると、なにも残らない気がして。

何かを成し遂げたいとか、新しい何かを創造したいとか、そういう大げさな目標は持ち合わせていないけれど、時間をかけて試行錯誤する時間はこれまでのいくつもの課題を乗り越える大切な時間だった。

毎日毎日同じことの繰り返し、でも毎日毎日ささやかな発見がある。昨日よりも確かに何かが変わる予感がする。何も見つけられなくても、自分の過ごしたい時間に身をおける。自分が持っている力、立っている場所、これまでの経験、あらゆる自分にアクセスできる。

ゆるやかに、ゆるやかに、少しずつ動いていく。

 

腹を立てる。

人が腹を立てるときは、それまで自分が大切にしてきた時間をないがしろにされた時だ。何を大切にしているかは人によって違うのだから、当然でしょう。

そんなくだらないことにエネルギーを使うなと、たしかに、人の意見は真っ当なのだけれど、そんなこととは関係なく、自分の中で形成された思いの塊はなくなりはしない。熱は日々のさまざまな瞬間に沸き上がり、時間をかけて冷ますしかない。

たいていのことは自分の選択が起こしている出来事、他人のせいにしている間は何も解決しないのだけれど、痛みは瞬間的で冷静に考えている暇はない。同じ場所を何周もして、苦しいのは自分でもわかっている。

自分の切実さに目を向けているか。

何気ない同期の院生さんとのやり取りで,自分の過去に書いた原稿を開いてみる。新採用教員を対象とした本だ。

自分なりに自分の原稿のいいなと思ったことを挙げてみると,「切実さ」かなと思う。今となっては忘れてしまったエピソードも,読むとヒリヒリする感じで思い出される失敗として書かれている(苦笑)。いろいろな教師としての日常がある中でその時の自分にとって引っかかったエピソードは,まさに自分の問題意識と隣り合わせだ。書いている時はいつも,自分のいたらなさに目をつぶりたくなる。そんな気持ちと,書くことの意味との葛藤がある。この時の原稿も,書くことによって自分の中で「学び」としての価値を付与することができたし,出来事と距離を置いて自分自身の次の行動を考えることができたのではないかと思う。書き続けなければわからないし,書いた後で時間が経って読み直す機会があることで気づくこともある。書いているその時にはわからないけれど,記録はのちの自分に届くものなんだって,信じたい。

さて,この原稿を読んで感じたことを書きながら,改めて今の自分の書きぶりを見つめる。状況も対象も異なるので書き方は大きく違う。それにしたって,「切実さ」という場所からは少し遠くなってしまったように思う。自分の研究なのに。

いや,今も学習者を前にして「どうしたらいいのかわからない」と迷っていた過去の自分は存在している。しかし,自分のためだけの文章ではないのだ。研究は,誰か道半ばの上に常に存在するという。その道筋に自分をどのように乗せるかが問われているのであって,自分の問題意識がなくなるわけではない。

だけど,どこか味が薄れてしまったような気がするのは,無視できないんだよな。うん。