学習者の記録には、良いところも課題もあって、どちらも次の授業や次の単元でどうフィードバックできるかを考えさせる。
基本的に文章で記録を書き続けるので、書く力の課題にも向き合う機会になる。
時間はかかるけれど、毎時間の記録を学習者ごとに読むことも、時間経過による個別の変化に気づく機会になる。
学習者の記録には、良いところも課題もあって、どちらも次の授業や次の単元でどうフィードバックできるかを考えさせる。
基本的に文章で記録を書き続けるので、書く力の課題にも向き合う機会になる。
時間はかかるけれど、毎時間の記録を学習者ごとに読むことも、時間経過による個別の変化に気づく機会になる。
オーソドックスに,教えることと言えば…でこの本を手にする。
そして,教育心理学からの視点で,この本も手にする。
気になったところをノートに書き写して考える。学び直すことが多い。
学ぶことの再考を通して,学習者が自ら学びを発見することの関心が強くなっていったわけだが,一方で,実際に授業をしてみると「場当たり的で表層的な興味」に終始しているのではないか,という疑念も尽きない。
ふと,大学の授業で「教師がモデルを見せる」場面を目の当たりにした経験を思い出す。学習者に真似させることから学びへの発展を目指すものだ。学習の積み重ねにより,後半は自分たちで挑戦してみる学びにつながっていく。
やはり,学びのステップが大切ということか。
モデルを示すことが,最初の踏み台になれればいいなと思う。
今日の谷川俊太郎研究の1冊。
公開インタビューの形式で,ロバート・キャンベル氏との対談内容が記されている。特に,今日読んでいて気になったのは,作者が読者をどのように意識しているのかだ。
読者というものを若い頃から意識していました。(p.8)
読者と言うものを僕はわりと早くから意識はしたんだけど,それは漠然とした読者というよりも,具体的なある一人の人が自分の詩をどう受け取ってくれるのかということが中心で発想していたんじゃないかと思うんですね。(p.18-19)
表現をするときの問題意識として立ち現れる読者の存在。この問題に対して大きなことは言えないのだけれど,中学生の表現活動を身近で見ていると「誰に届けるのか」という問いを持っているのとそうでないのとでは,大きく活動が変わってくることがわかる。何か具体的なスキルを教える以前に,誰かが表現の先に見えるのかどうかを問いとして持ち続けたいと思う。
2年ぶりの国語の授業がスタートして1か月。
と言っても,標準学力検査や全国学テ,修学旅行があったりして,実際の授業は5~6時間程度だった。授業開き・オリエンテーションからはじまり,「春に」の単元を4つのコース別活動で展開して連休に突入した。
最初は個人の活動を解放する部分が大きくて落ち着かなくなる場面も多かったが,活動の趣旨を共有すること,個別の活動とグループの活動の調整をすることを大切にしながら進める形となった。言語活動の選択自体を生徒に委ねる単元だったけれど,上手くいっている部分と課題となる部分,自分でもまだ見えない部分がある。試行錯誤は続く。
しかし,改めて学校という場に戻ってくると,今までの当たり前が変わってしまうことに対して,人がどれほどの抵抗を感じるのか目の当たりにする。今回の単元はかなりチャレンジングで刺激的で,ともすれば信頼を失いかねない危うい場面もある。教師が「正しい」と考えることと,その可能性を生徒も信じられることは別のことなのである。生徒の文脈に寄り添いながら進められることが何より大切で,その意味で,自分の見方を修正する必要があるのだと感じる場面もあった。
それでも,学習記録と「持ち寄る」性質の単元学習の発見には救われる部分もたくさんあって,大学院進学前の自分の授業と大きく変わっている部分であることは,自分自身が強く意識していることである。
北海道立近代美術館のコレクション展を見に行く。
www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp
目的は蠣崎破響展。
「おばあちゃんのおじいちゃんは松前藩の有名な絵描きさんに仕えていた人なのよ」というのは,私が幼少期に聞かされた祖母のルーツを語る時の決まり文句。どこまでが本当かは今となってはわからないが,祖母の描く鉛筆画は今でも記憶に残っているほど美しいものだった。私の初めての模写は,祖母の描いたものだったと思う。
松前藩の家老として政治家や漢詩人の顔も持つ破響は,花や鳥の絵を得意としている。いつか書道で初めて雅号をいただいた時に,自分に与えられた名に花という字を見た。その字面から破響の絵を思い出すということがあった。そのくらい,私にとって身近に感じられる画家のひとりである。
今回最も印象に残ったのは,熊が描かれている作品。つい先日も熊の出没がニュースになっていたけれど,この時代の作品に熊のモチーフとした作品はどのくらいあるんだろうなと疑問に思って見た。ヒグマではないようだけれど,しかし生活に熊の存在があったのだろうなと思わせる作品である。おもしろい。
少しずつ春らしくなってきた北海道。今日は雨。
先日,引っ越し先の図書館で借りた谷川俊太郎と編集者山田馨の対談本を読了。
巻末は年譜になっていて,いつどこに行って何に感動したとか,誰に再会したとか,ちょっとしたエピソードがわかるようになっている。
対談の中には,「春に」が載っている詩集『どきん』についても述べられている。谷川さんにとって初めて子どもの読者を対象にしてつくった詩集ということもあり,どう子どもたちにアプローチするのか語られる。学校教育に対して批判的な見方も示し続けてきた谷川さん,子どもたちと一緒にさまざまに読んでいく。
「詩は理解するものではなく,味わうものです」という言葉に対して,「確かにその通りだと思う」,「味わうってなんですか」,「そもそも理解してなきゃ味わえないのではないか」などなど。
一人一人の考え方を持ち寄って,一つの詩を読んでいけたらなと思う。
読書指導の中で「書評」を書くっていう言語活動を考えるけれど,実際自分もやってみて実感するのは書評を書くのってむずかしいよなっていうことだ。
光村3年生の教材に竹田青嗣さんの「「批評」のことばをためる」というのがあるが,そもそも批評の語彙が日常生活にないかもしれないと思う。「これが好き」ってことは言えても,どんな点でどうだってことをなかなか伝えることが難しい。
そんなわけで,私の中で「書評」を学ぶことがここしばらくの学びたいことになっていて,その中で一つ目に入ったのが,明治大学図書館紀要『図書の譜』だ。
2011-2013年度の紀要に書評コンテストの受賞者の文章が掲載されている。明治大学図書館に限らず,こうした大学附属図書館の大学生の読書活動を促進するための活動はどこの図書館でも見られる。これはそのうちの一つにすぎないけれど,学生の使っている語彙を具体的に知ることができるので興味深く読んだ。やっぱり書評を読んでいると「読んでみたいな」という気持ちがわいてくる。中学生が大学生の書評を読むとどのような反応を示すのか,また,中学生が読んでおもしろいと思う書評はどんなものなのか,新たな問いが浮かんできた。
さらに,2012年度の活動内容を見ると,「ブックハンティング」という活動があった。学生が直接書店へ出向き,学生自身が直接本を手に取って選書する活動である。確かに,ほしい本は書評や本の情報に触れて読んでみたいと思うことと,直接書店へ出向いて目で書棚を眺め,手に取って帯やまえがきを読んだりして選んでいる。選書の基本というか,「本を買いに行く」行為をまるごと活動にしてしまう点でおもしろいと思う。
ふと,自分の経験を振り返ると,図書委員を通して学校にリクエスト本を募集する活動との大きな違いを感じる。地域によっては書店や図書館が近くにないという物理的な問題もあるけれど,そもそも人の「読みたい」感情は一つの企画だけで賄えるものではないよなと思う。