放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

「もともと故郷はこんなふうなのだ」―11月の振り返りと12月の単元

聞き出さないとわからない

11月は,自分が担当する総合的な学習の時間の山場を迎える月だった。

自分の無責任な立ち回りのせいで,学習者におもしろくない時間を過ごさせる経験をした。申し訳ないが,今年度の大きい学びだった。

教科の授業のように,自分が責任者で一人で計画・運営することについては概ね何の不自由さを感じることはない。しかし,協同で創っていく総合のような授業では,だれがどこまで責任を持ち,計画に不具合が生じればどのように修正をはかったらいいのか,どこまで口を出すべきなのか考えてしまう。

今回は,気付いた事は間髪入れずに言った方がいいことを学ぶ。それぞれに忙しいけれど,思っていることはわからないのだから,直接聞きにいかないとダメなんだよ。

 

学習ゲームでやり過ごす

授業は学力テスト,定期テスト,成績評価の山を過ぎた。が,3年生はすぐにまた学年末テストがあるので,のんびりとはしていられない。

和歌の学習を,教科書に書いていることを主として進む。音読練習はじゃんけんをして勝った方が読む歌を選択できるゲームを取り入れる。後半は,教科書掲載歌から1首を選ぶ活動を少しだけ入れて,残りは解説をした。

月末は魯迅『故郷』の単元への導入準備。範読するだけで1時間を要する『故郷』を読みながら,題名から小説の内容を予想する力を問うワードビンゴを行う。範読を聴きながら,予想した単語を塗りつぶすだけの活動だけれども,単純なゲームはたまにやると盛り上がるものである。

鬼門の11月をやり過ごした。

 

文字化資料を活用する

12月の単元はパネル・ディスカッションで『故郷』の登場人物の生き方について考える2時間。すっかり道徳的だと,自分でも思う。

今回は録音と文字起こしの作業をする。文字起こしは時間もかかって本当に大変な作業だが,話すことの指導はその場で起こったことを題材として学習するべきだと思うし,文字化資料として残すことで振り返りを促すことが効果的だとも思っている。

 文字化資料を活用して,話し合いで印象に残った発言を記述,その上で自分の「希望」についての考えを書く。出来上がった作文を文集化して読み合う。ここまで2時間。これが,最後の文集になるだろうか。

 

そして,11月だ―10月の振り返り

10月は校内の研究授業があり,久々に感じた興奮をどう解釈するのか考える1か月だった。また半年ぶりに定点観測の教室を訪問し,変わってしまった自分の感覚に気づかされたりもした。断片的にしか書くエネルギーがないので箇条書きで残しておく。

 

竹田青嗣『「批評」の言葉をためる』に対して愛着があるんだなと気づく。感情的な言葉しか並べられないことに対して憂う気持ちがあり,人ともっと言葉で伝え合えるようになったらいいのにな,という願いがある。

SNSを介したコミュニケーションに対しての信頼は年々薄れている。ちゃんと会いに行って伝えるってことを大切にしたらいい。

・単元のまとめをしながら,気付くと「相手のことを考えて・・・」と言っていた。自分の求める国語科授業が道徳的だなと思った。

・いつだって自分が一番学びたがっている。

・参観日でおくのほそ道平泉の授業をした。どう授業したらあの名文を感じられるのだろうか。何回授業してもわからない。苦笑

 

今月もたくさんの本を借りたのに,まともに読めた本はなかった。『尾を喰う蛇』だけは,ずっと何かがひっかかっている。

新潮 2019年 11 月号 [雑誌]

新潮 2019年 11 月号 [雑誌]

 

そして,11月だ。

そういう学びじゃないんだよなぁ。

単元を終える度に「もうちょっとどうにかできなかったのかな」と思う。

単元を考えている間は,この学習がどのように進むのかワクワクして考えることができる。

いざ授業が始まってみると,自分の独りよがりな考えに気づかされたり,

学習者の困難に直面したりしてうまく回らなくなることが出てくる。

立ち止まって,何を大事にすべきか判断すべきなのだけれど,

自分の判断に自信が持てずに結果として何も判断できないこともある。

まとめまでを構成できないこともある。

学びってなんだろうと,そもそもの議論に立ち戻ることもある。

逡巡して,いつも教室に取り残されている。

 

「主体的」という言葉があるけれど,学ぶことはそもそも主体的な行為だったはず。

自分が知りたいと思ったり,面白そうだと興味を持ったりして動いていく。

それが,学校での学び,教室での学びとなっていく過程で,

形を変え,姿を変え,本来の魅力的な学びの時間が見えなくなっていく。

自分の外側には面白そうなことがたくさん転がっていて,

学びたいと思う尊敬すべき人もたくさんいる。

教師ができることは,膨大な学びの可能性の中から

いくつかを見せたり,譲り渡したり,体験する場を創造したりすること。

 

だから,成績のために勉強するとか,先生が見ているからやるとか,

そういう学びじゃないんだよなぁ,と思う。

お友達とつながりたい願望。

校内研修で授業研究をした。

久しぶりの公開授業で,指導案作成にだいぶ手こずっていたが,

何のためにこの単元が必要なのかを考えて作れたことは嬉しいことだった。

相変わらず自分の思いが先行している点は自覚しなければならないけれど,

その先へは,まだ進めていないこともよくわかった。

 

授業中に視界がクリアになった瞬間は,

書評の書き手と,想定した読者が,書評に対するコメントを通してつながる時だった。

 

今回は共通の作品2点に対して書評を書いた。

クラスを二つに分けて未読の読者がいる場を作り,未読の読者が読みたいと思えるように書評を書くことを学習課題とする。

書き手が「誰に向けて書いたのか」が自分にとっては重要なことに思えた。

表現や構成うんぬんよりも,誰に向かって伝えようとしているのかが書き方を決めると思っていた。

だから,書評発表の場で発表者が誰からのコメントを必要としているのかを考えた時に,最初に想定した読者に聞くことが必要に思えた。

 

少し時間が経って,この瞬間への自分のこだわりが強かったことに気づく。

自分が授業を参観する場面でも,生徒同士の温かなやりとりに焦点化することがよくある。

これってとても「教師っぽい」見方だなと思うけれど,

一方で,仲良しになれればそれでいいのか,と突っ込みたくなる自分もいる。

 

自分自身への気づきとして留めておこう。

「読みたい」を引き出す書評を書こう。

明日から始まる単元を前に,国語科通信を書いた。

 

***

 

読書は新しい世界をひらく扉だ。

本は私たちを一歩先へといざなってくれる。

 

今のあなたの読書をもっと充実させたいとき,”書評”がきっと役に立つはずだ。

書評にはあなたがまだ読んだことのない作品の情報が書かれている。

また,書き手の読み方や価値判断も記される。

書評は,作品を多角的につかむことにつながるだろう。

まずは一度チャレンジしてみてほしい。

 

今回はクラスを2つに分けて書評を書く。

プロの書評家・豊崎由美さんの手順を参考にし,クラスのあの人の「読みたい」を引き出す書評にチャレンジしよう。

 

***

 

参考資料は二つ。

 

豊崎由美さんによる「書評活用術」が掲載されたムック本を読む。書評の書き方の手順も分かりやすくまとめられていたので通信でも紹介することにした。

そこから豊崎由美さんの『ニッポンの書評』へ。

とにかく書評について知らなければならないと思っていたので,たくさんの書評例があるこの本は参考になった。批評と書評の違いや,書評にあらすじを書くことの是非が書かれていて細かく書評について知ることができる。大澤聡との対談も面白い。書評の意義を考えさせられる。

ニッポンの書評 (光文社新書)

ニッポンの書評 (光文社新書)

 

 

書評を書くための課題となる教材を探していた時には,このブックガイドが役に立った。

人生を狂わす名著50(ライツ社)

人生を狂わす名著50(ライツ社)

 

 

ちょっとチャレンジしてみようかな。ー9月の振り返り

9月もあっという間に過ぎ去った。

定期テストや学力テスト(業者テスト)の採点・評価業務,文化祭準備による多忙感の中毎日を過ごす。

加えて,来月の校内研修研究授業に向けた授業づくりを考える時間も多くあった。

今は「書評」と取っ組み合っている。市内図書館から書評に関する本をたくさん借りて,書評を書くことにどんな意義があるのか,どんなおもしろさがあるのかを探っている。

 

学習記録のこと

最近は年度当初と異なり,ノートを毎時間集めて点検することをしていなかった。もう学習記録は学習者のもの,自分の作りたいように記録を作ってもらいたいなと思っている。学習記録の自走期間である。

今回は次の単元づくりのヒントになればと思い,1クラスのこの数時間の学習記録を一覧化した。学習記録を束ねるたびに「自分の記録を見直して」と話をするのだが,話をしたタイミングも重なって,明らかに書くことの量と質の変化が見られる生徒がいる。

私が話をする時間が長くなった授業についても,充実のメモと授業記録が書かれている。この集中力の発見は,学習記録の実践を行っているからこそ得られる喜びだ。

ただ板書を写すのではその学習者の腰の立て方は見えてこないのだけれど,授業記録という形で授業後に感じたこと・考えたことを記述することで,学習者の思考が見えてくる。

 

学習記録に励まされながら9月まで来た。

学習記録は学習者のものだけれど,私にとっては学習者への信頼を取り戻すために読むものでもある。きっと彼らならできる,きっと彼らなら何かを創り出す。自分の判断に迷いはあるけれど,その可能性を一つ一つ拾い集めるように,今日も学習記録を読む。