私は、ある一定数の生徒が古典嫌いになるのはその通りだと思っています。
古典で教えることは「明確」だけど
これまでに私が中学校で扱った主な古典教材は、「いろは歌」「竹取物語」「平家物語」「枕草子」「徒然草」「おくのほそ道」「和歌(万葉・古金・新古今)」「故事成語」「漢詩」「論語」です。
古典と一口に言えないものもあるかもしれませんが、ひとまずここでは私が認識しているものを挙げます。
古典は小学校の学習指導要領でも明記されている通り、言語感覚を養う教材として音読が重視されています。個人的な感覚としても、上記の冒頭文はネットで調べなくてもスラスラと言えるのが理想だと思っています。そのため、私も音読や暗唱を重視する授業を展開してきました。
しかし、それだけでは中学校古典教育の指導として不十分だと感じます。なぜなら、市販テストや高校入試で古典に関する知識について問われることがあるからです。
国語資料集の古典の欄には、必ず現代とは異なる語句の意味や歴史的仮名遣い、係り結びに関する知識が掲載されています。このような知識を教えない教師はほとんどいないのではないでしょうか。教えるべきことが決まっている、だから古典教材を教えることは教師にとって簡単なことのように思います。
「味わう」とはどういうことか
しかし、教えることの容易さと学習者の意欲は直結しません。
先日、とある国語教育のサークルに参加しました。そこでは係り結びの教え方について話題となりました。みなさんは係り結び、どの程度授業で教えているでしょうか。
交流の結果、教え方は以下の3点あがりました。
①知識として定義やルールを教える
②本文中の使われ方を教える
③文章を読解する上でどのような役割をしているか教える
それぞれの分類の中にもさらに程度の差はあるかと思います。
例えば、③に関して、ある先生は係り結びの表現によって「語句が強調される」と教えることがあるそうです。文章の解釈に変化が起こることを教えるのです。
またある先生は、係り結びが使われるか否かで、どのような文章の解釈に違いが生じるか考えさせる展開を示していました。
私はどちらも実際の授業展開として成立するものだと思っています。
①もしくは②の段階の指導で教えたことにしている現状があるのではないかと思います。今回はたまたま係り結びでしたけれど、それ以外の古典の知識についても機械的に覚えるような内容となってしまい、本文を読み味わうことから離れて、無機質に教えることになっているのが現状ではないか、と私は思います。
私は専門外ですが、高校の古典の授業はもっとその傾向が強いように見聞きしています。大学入試への意識が働いているせいか、古典文法重視の授業は必ず問題点として挙げられます。そして古典文法の指導が、古典嫌いの要因としてあげることが多いのではないかと思います。一文を文法の知識を用いて分解解釈し、口語訳をし、それで内容を理解したことにする、ということです。
そこで、古典を学ぶおもしろさを感じることはできるのでしょうか。
古典を味わうとはそういうことなのでしょうか。
学習者の発見から古典の魅力を知る
国語科の限られた授業の中で、古典にばかり時間を割くことができない事実は現場で教えていた身として重々感じるところです。
だから多くを求めず、最低限必要な知識を教える授業を私は展開してきました。
結果、古典嫌いはどこのクラスにもいたと記憶しています。
一方で、古典作品から日本文化のルーツを知ること、純粋に今と異なる文化を知ること、多くの人に読み継がれるだけの魅力を見つけることなど、古典作品を読むことには生徒の知的好奇心を刺激する可能性も秘められています。
私はそのことについて生徒の学習記録から知ることがありました。決して私自身は古典の授業を作品を読み味わうような授業を展開していたとは思っていなかったのですが、生徒の中には古典作品から上記のような魅力を感じ、それを言語化している生徒もいました。それは古典作品自体に魅力がある、ということなのかもしれません。
古典作品に限った話ではないと思いますが、その教材のどうしようもない面白さを見つめる視点は、教師にとって必要な力なのだと思います。そこから授業を展開していくことで、学習者の「〇〇嫌い」を少しでも救えるのではないか、と思うのです。