放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

学習の収束とは、何をすることなのか?

来週に迫っている中間発表会に向けて、ひたすら収束の作業。今日はこれまでのブログの記述を関連付けする作業。いわば凝縮ポートフォリオ作成に近い。

ただ、研究としての論文は、自己満足で作品を集めるだけではないので、わかってもらえるように題材を選び直したり、因果関係を具体的に記述したりする。実際の授業で問題となることをもう一度捉え直す思考も必要。

調査・分析している時は、無邪気に自分の疑問を泳がせて新しい発見にワクワクしながら進めることができるのだけれど、収束の作業は慎重さが必要で、性格的に難しい作業だなと思う(笑)。いや、程度の差はあれ、毎日の記録だって、思慮深さが必要なんだけど。

 

学期末のあとがきを書く作業もこんな感じなんだろうなと思う。自分で学びを拾い直す、すごく大切な時間だと思うから、時間いっぱい丁寧にやりたいと思う。

意欲と並行して付き合ってくれたら嬉しいんだけどな。体調さん、お願い。

分けられないことがある

 ちょっと寄り道。授業研究のストーリーを読みたくて以下の本を手に取る。

日本の授業研究〈上巻〉授業研究の歴史と教師教育

日本の授業研究〈上巻〉授業研究の歴史と教師教育

 

 この中で気になったのは平野婦美子『女教師の記録』だ。教師がどのような生活をして、どのような見方や考え方を獲得していったのかに興味がある。大村はまの伝記もおもしろいと思って、2014年にすごくはまって読んだ記憶がある。

女教師の記録 (1980年) (ほるぷ自伝選集―女性の自画像〈5〉)

女教師の記録 (1980年) (ほるぷ自伝選集―女性の自画像〈5〉)

 

 「生活を投げうって」という表現に出会うのだけれど、自己犠牲の精神ではなく、思考は仕事も生活も関係なく、一人の人間の中でずうっと続いているものだって思う。

書くことによって認識が深くなるってどういうことか

 記録を書くことと考えることはどういう関係にあるのだろうか。授業の記録を書いている時に、学習者は何を考え、どのような気づきを得るのだろうか。書いている時の思考過程が気になって以下の本を手にする。

子どもの文章―書くこと考えること (シリーズ人間の発達)

子どもの文章―書くこと考えること (シリーズ人間の発達)

 

 この本を読みながら、自分がブログを書くようになってから「実感」することを思い出す。その日の出来事や発見を一つのトピックとしてまとめて投稿する。その際に、最初に書こうと思っていた話題と話がズレていくことが多い。タイトルを先につけて書き始めたのに、いざ書いた文章を読むと、全然違う話題になっている。やはり書いていて気づくことはたくさんある。自分がこだわっていたり気にしていることは何度も繰り返され、具体的な事例や感情が含まれて書かれていく。書いている途中で、結局そうは言えないなと気がついたり、何が言いたいのかわからなくなったりもする。書くことで考えるというのは、そうなんだろうなと思う。

しかし、本当に書くことは認識を深めるのだろうか。この本では心理学のさまざまな研究を紹介しながら、実際の作文の推敲過程を追跡している。

そうかぁ、と思ったのは、「書く以前はみえなかったことが因果的に関係づけられてみえるようになったということに伴う主観的体験」という表現。

学習をしながら、まだ気づいていないこと、具体的表現がみつからないことが、ことばにすることによって安定し、自覚化される。体験や活動を通して、何か学びを見つけようとする中で、ことばにする機会が新たな見方や考え方を生成する、ということなのか。

実践を整理するための観点と授業づくりで大切にしたいこと

今日は現実的な作業の1日。

10月3日の修士論文中間発表に向けて、これまでの調査のまとめを作り始める。今月上旬に一度作ったプロットとは違った見方が出て来ている。いろいろな疑問点をまとめていくと、学習記録をめぐって「①目的②内容③機能④形態⑤方法⑥評価」の観点で整理するのがよいのかなと思う。この捉える視点は、ノート指導や記述分析の先行研究を追っかけて得た成果である。

日が沈み、思考が停滞してからは、単純作業に移行。3年間の学習内容をエクセルの表にまとめる。1時間で達成できる課題、その課題がその時間内で完結してしまうことを記録からひしひしと感じながら、こうなってしまうのは、授業が始まる前にどんな目的でどんなプロセスを描くか、その思考や判断ができないからなんだよな、と思う。教師がガチガチに活動を規定することに抵抗感もありながら、子どもたちには力をつけてほしいと思うし、新しい知識も獲得してほしいとも思う。

この後、自分が教室に戻った時に、何を大切にして授業を運営していくか、切実な問題である。

 

どうして単発的な創造になってしまうのか。

単元ごとの記録を分析していたが、やはり年間を通した記述を追わなければ意味がないなぁという思いにかられて、3連休は決意して、抽出生徒の記述をデータ化する。

記録の記述だけではなく、授業内容、課題、メモ、ワークシートの内容など、情報は多くなる一方で、とても労力がかかる。でも、自分の持っている資料の強みだし、やるしかないと言い聞かせながらやる。

 

データを打ち込んでみると、やはり授業が1時間で完結している感じが課題に思えてくる。私の中に、1時間で新しい知識を教えることに意識が向いている。1時間では身に付かない思考力や表現力に対して、授業で十分に扱えていないなぁと思う。初任のころよりは、学習者の姿が見えるようになったし、「こういうことがあったから、こうしてみよう」とか授業を柔軟に展開できるようになったと思うけれど、それでも授業を構想する段階で核となっているのは「教科書教材で何をしようか」ということなんだと思う。

 

この問題意識は前々からあったはずなのに、記録を見ていると3年間変わっていないように思える。どうしてなのだろう。一つ思うのは、授業前の思考が重要なのだということと、その思考の時間と問いの量をどのくらい持てるかということだ。

終わった直後に言語化できないこともある。

インプロ授業に参加してきた。体験後の記録について、私以外の参加者(おとな)からおもしろい話を聞く。「楽しい」感覚のあいまいさについてだ。

 

「楽しい」という実感は時間が経ってみると「そうでもないな」と感じたり、逆に体験が終わってすぐは何も実感していなかったりすることがある。ワークショップは大抵、体験後すぐに振り返りを記述することが多いが、終わってすぐに何も実感がない場合、振り返りを書けないことがある。直後にはわからないことがある。

インプロは特に、その場の空気や自分の感じ、思いつきを大切にする。失敗を恐れないことは、感覚に身をゆだねてみることでもあり、思考や制御からちょっと離れてみることになる。私の感覚では、インプロの瞬間に没入しているとき、メタ認知が発動しない状態になる。書こうとしても書けないことがある。場所を変え、モードが変わった時に、思考のスイッチが入って「何が起こったのか」「わたしはどんな感じだったのか」「なぜそうなったのか」といった問いが浮かんでくる。

 

授業も同じで、授業後、単元の終末、学期末、と時間を経ることで感覚の言語化は異なるものになるだろう。確かに記憶量は少なくなってしまうが、自分の実感を問い直すとそのときにはわからなかった新しいことに気づくことができるだろう。

書くことの授業と読むことの授業で記述内容はどう違うか。

作文の授業の学習記録分析つづき。

記述内容を整理すると、自己評価や次の時間への展望の記述が目立つ。読みの授業と異なるのは、ゴールイメージがはっきりしていることだ。

書くという作業は「書き終わる」イメージが生徒の中にもある。今回の授業では枚数指定もあったことにより、「〇枚書けた」という記述も多かった。そして、単元全体を通してそのイメージに向かって進んでいるため、記述内容も進捗状況が多くなる。

それに比べると、読みの授業では比較的一時間ずつの成果が書かれることが多いなと思う。導入で何を目指して学習活動をするのか説明しきれていないことも原因にあるが、読みの授業ではその時間ごとにしたこと+学びの記述が多いように思う。

書くことでもそうした書きながら気づいたことを記録する力も必要だと思うので、どちらの方向がよいということではない。ただ、記述内容の様相から授業スタイルをとらえられることがおもしろいと思う。