放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

自分との距離感。

「客観」という言葉は、いつどのようにして獲得される言葉なのでしょうか。

 

わたしが美術部員だった時の話です。

その日は石膏像のデッサンに取り組んでいました。

ある程度描き終わって、顧問の先生にどうですかと尋ねました。

 

すると先生は「自分で客観的に見てどう思う?」と聞き返しました。

わたしはちょっと驚いて、「どう…と言われましても、これはわたしが描いたものなので」と返しました。

自分ではどこをどうしていいのかわからないくらいに描き込んでいたので答えられなかったのです。

もうそれ以上は自分の中に答えはなかったのです。

先生は少し笑って、「そうだよなぁ」と言いました。

 

その後で先生は細かなポイントを指導したのだと思います。

ただ、わたしはその時のやり取りにとても違和感がありました。

きっとあの会話には、顧問の先生の意図が隠されていたのだと思ったからです。

「自分でどう思うか」という問いかけには、「自分からいったん離れて見てみるとどうか」という意味を感じました。

わたしは思ったよりも自分がデッサンと同一化していることに気がつきました。

描くという行為によって、描いたものが自分と切り離せない対象となってしまい、どう見えるのかを言語化できない状態になっていたのでした。

 

 

こういうことは経験としていくつも持っていて、

その度に「客観」という言葉が実態のないものに思われます。

言葉としてはわかっているようで、実は知らないのではないかと思うのです。

 

同時に、

人間関係を築いていく時、他人との距離感に焦点をおくことがありますけれど、

自分が自分とどのくらいの幅を持って見つめられるかということ、

つまり自分と対象との距離感をどのように持つかということが重要なのではないか、と思います。

おそらく、今そのデッサンを見たとしたら、わたしは何だって言える気がします。

もうその場から離れたところにいるからです。

 

もっと遠くに立てば、また別のことが言えるのでしょう。

どこに立って見るかが大切なことなのでしょう。

他者との共有から変容を促す。

最近、授業参観をしていて「共有」がどのように位置付けられているか気になっている。

 

さまざまな学習記録を見るようになって、学びの共有や振り返りの共有について注目するようになった

きっかけは大村はま昭和47年から同50年までの3年間の学習記録からである。

 

大村はま全集第12巻を読み直していて、学習記録の変化は2点あることがわかった。

 

1つは、目次の作り方の変化だ。驚くことに(?)昭和47年1年生の1学期、つまりその学年の生徒にとっては初めての学習記録作成後、その学習記録に関する学習記録をさらに作成している。そこで他の人の学習記録の目次を共有し、そこから目次の分類の仕方や構成、題の付け方を学んでいる。3年間の目次を並べるとよくわかるが、経験を積むごとにどこでどんな学習をしたのかよく整理されているものになっていく。

 

2つ目は、授業時間内に書かれるメモである。昭和48年2年生の最初の授業で大村はまは「一段と高く目ざして」というプリント資料で授業びらきをしている。その後の記録をまとめ、プリントして配付することを3回続けた。すると、友だちの記録が刺激となって、授業時間内で細かな注意や指示をメモすることが共有されるようになった。実際の学習記録を見ても、この学期から生徒自身の記述による記録の量が増えている。教師が言ったことだけでなく、授業過程の記述も増え、活動中にうまくいったこととうまくいかなかったことの記録なども見られるようになる。

 

このように記録を見ていくと、他者との共有(書いたものの共有、話すことでの共有など)が学習者の変容を促していることがわかる。

 

もちろんただ単にコピーをして渡すだけではなく、一覧化して見られるような資料にするとか、教師から観点を示すとか、何らかの支援が必要だろう。しかし、共に学ぶ学習者の良いところを吸収していく経験は、学校の外に出た時に、どれだけ貴重な能力になるだろうか、と私は思う。学習者同士の学びの共有の価値を改めて考えている。

書くことで足りないものを知る。

9月も残すところあと10日間になった。

教員になってから、この時期は学校祭期間で忙殺されて、

「あっという間に10月」という感覚が9月にはある。

今年は学校祭準備とは遠いところに自分がいるけれど、

正直そんなに調子よく回っている9月とは言えない気がする。

不調と判断する理由は、書くことが継続できていないことにある。

 

大学院は8月中旬から9月いっぱい、集中講義以外の授業が行われない。

それで、大村はま文庫に行ったり、合宿や上海視察などをすることができた。その点では充実していたと思うし、今後の自分の見方を大きく広げられたと思っている。

ただし、これらの事が日常から少し離れることになり、自分の軸足が地についていない状態になった。つまり、日々書くという習慣を手放すことになった。

 

書く習慣から遠ざかった要因は、2つあると思っている。

1つは、授業がなく、外に出る機会が多くなったことで、生活習慣が一定にならないことだ。疲れも出やすくなるので、腰をおいて書くことができなくなっていた。

2つ目は、目的を失いつつあることだ。何を書くか、どのように書くかが正直よくわからなくなった。それは、書く目的に迷いがあるからなのだと思う。実はこっちの理由の方が重要で、きっと目的が自分の中ではっきりしていれば、ある程度の状況や場においても書き続けられるのではないかな、と思っている(たぶん)。

 

そもそもわたしが大学院に来たのは、本を読む時間を確保することと、書くことで自分の自己認識を深めることにあったと思う。

 keynote.hatenablog.jp

 読むことも書くことも、学校現場においては少なくなってしまう。もちろん、現場にいながら多量の読書量を持ち、多くの発信を続けている人もたくさん知っている。けれども、わたしのような凡人教師は、生徒や保護者、職員室でのあれこれと距離感を適度に保って自分の時間を作り出すことが簡単ではなかった、と思っている。

 

だから本当は読むことと書くことに重きをおいた生活をベースにしきたいと思っていたはずなのだ。

それが、自分の思っていた以上に詰め込んだスケジュールになってしまったのは…「自由な時間」に対する期待感の表れなのかもしれない。

 

今日はかなり反省的に自分の生活について書いた。

修正には少し時間がかかりそうだ(もうすでにいろいろな予定を詰め込んでいるから)けれども、日が短くなっていくのと同じように、ゆるやかに習慣の変化を促していけるといいな…と思う。

中国に行ってきた。

いろいろなご縁があって、中国、主に上海の中学校や高等学校に行く機会を得た。

 

異文化との接触(という言葉ほど大きな体験ではないかもしれない)は、自分自身の生活を常にひっくり返してくれる有難い経験だ。古典教育、特に漢詩・漢文を学ぶ意義や方法を根底から考えることができたし、中国の語文教育からは日本の作文教育の課題が浮き彫りになった。課題は課題として受け止めるが、考えるべきはそれぞれの文化の中でなぜそのような様相になったのかだ、とわたしは思う。

 

また、中国での授業を見ながら、自分の中ではっきりしたのは、生徒の問いから出発する授業のあり方である。これまでに幾度も授業観として重視されてきたことだと思う。でも、わたしの中では、まだまだ表層的で腑に落ちないことが多くある。学ぶということは誰かが課題を提示して獲得していくものではなく、自分で知ろうとして獲得していくものなのだと思う。感覚的な表現しかできないけれども、その立場は、この先揺るがないものなのではないかと思う。

 

上海の街並みは、多くの観光客が目の当たりにするように、古き良き時代と未来都市を象徴する建築物が河を隔てて並んでおり、「あちら側」と「こちら側」という概念がとても合う素敵な場所だった。両方が視野に入っていることが必要でありながらも、やはり未来を創ろうとするエネルギーの強さを、感じずにはいられなかった。

「言うべきこと、言うべきではないこと」

  何事も新しいことを始めるには周りの理解が必要だなと思うことがある。

作ることで学ぶ ―Makerを育てる新しい教育のメソッド (Make:Japan Books)

作ることで学ぶ ―Makerを育てる新しい教育のメソッド (Make:Japan Books)

 

  引き続きこの本についてだ。興味を持つのは、実践の継続にあたって、具体的な議論のための「言うべきこと、言うべきではないこと」のページ(p286-293)である。

 教育が子どもたちに直接与える影響は少なからずある。だから、教師は一度進んだら覚悟を決めて実践し続ける姿勢が大切だ。そのために価値を確かめる、納得してその実践の価値を語ることができる、こういうことが必要なのだと思う。

 どの実践にもメリット・デメリットがある。その時に、実際に起こっていることをどうとらえるか、実践をしていく上での課題をどのようにクリアにしていくか、実践過程で常に考えていかなければならないのだろう。その意味で、このページは実践における疑問と葛藤を具体的な形で提示していることになると思った。

 教員一人で教育を行っているわけではない。自分の指導だけで子どもが育っているなんてことはない。だからこそ、周りと対話することで必要なことを探ることが大切で、その中で自分の考えを言語化して伝えられる力が、新しいことを続ける際に必要になってくる。

古い。

どこかで聞いたことがある話、

使い古されたフレーズ、

何気なく言い易い流行の言葉。

丸かろうが四角かろうがとにかく

石ころを拾っては遊び、

満足してはひとりごちる日々。

でも、本当に見たいものは

誰も見たことがないような新しいもの。

形となって表れるものでもなく、

まったく新しいもの。

「なぜ」という問いに対してどの程度対峙するのか。

着想論文検討会ではいつも現れる大きな問いがポイントとなった。

 

古典教育はなぜ必要か。

教材価値とは何か。

何を持って効果的な指導方法と言えるのか。

 

それぞれの問いについて多くの考えにアクセスするとともに、

今の自分たちが実感として言えることを大切にしていきたい。