放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

そういう学びじゃないんだよなぁ。

単元を終える度に「もうちょっとどうにかできなかったのかな」と思う。

単元を考えている間は,この学習がどのように進むのかワクワクして考えることができる。

いざ授業が始まってみると,自分の独りよがりな考えに気づかされたり,

学習者の困難に直面したりしてうまく回らなくなることが出てくる。

立ち止まって,何を大事にすべきか判断すべきなのだけれど,

自分の判断に自信が持てずに結果として何も判断できないこともある。

まとめまでを構成できないこともある。

学びってなんだろうと,そもそもの議論に立ち戻ることもある。

逡巡して,いつも教室に取り残されている。

 

「主体的」という言葉があるけれど,学ぶことはそもそも主体的な行為だったはず。

自分が知りたいと思ったり,面白そうだと興味を持ったりして動いていく。

それが,学校での学び,教室での学びとなっていく過程で,

形を変え,姿を変え,本来の魅力的な学びの時間が見えなくなっていく。

自分の外側には面白そうなことがたくさん転がっていて,

学びたいと思う尊敬すべき人もたくさんいる。

教師ができることは,膨大な学びの可能性の中から

いくつかを見せたり,譲り渡したり,体験する場を創造したりすること。

 

だから,成績のために勉強するとか,先生が見ているからやるとか,

そういう学びじゃないんだよなぁ,と思う。

お友達とつながりたい願望。

校内研修で授業研究をした。

久しぶりの公開授業で,指導案作成にだいぶ手こずっていたが,

何のためにこの単元が必要なのかを考えて作れたことは嬉しいことだった。

相変わらず自分の思いが先行している点は自覚しなければならないけれど,

その先へは,まだ進めていないこともよくわかった。

 

授業中に視界がクリアになった瞬間は,

書評の書き手と,想定した読者が,書評に対するコメントを通してつながる時だった。

 

今回は共通の作品2点に対して書評を書いた。

クラスを二つに分けて未読の読者がいる場を作り,未読の読者が読みたいと思えるように書評を書くことを学習課題とする。

書き手が「誰に向けて書いたのか」が自分にとっては重要なことに思えた。

表現や構成うんぬんよりも,誰に向かって伝えようとしているのかが書き方を決めると思っていた。

だから,書評発表の場で発表者が誰からのコメントを必要としているのかを考えた時に,最初に想定した読者に聞くことが必要に思えた。

 

少し時間が経って,この瞬間への自分のこだわりが強かったことに気づく。

自分が授業を参観する場面でも,生徒同士の温かなやりとりに焦点化することがよくある。

これってとても「教師っぽい」見方だなと思うけれど,

一方で,仲良しになれればそれでいいのか,と突っ込みたくなる自分もいる。

 

自分自身への気づきとして留めておこう。

「読みたい」を引き出す書評を書こう。

明日から始まる単元を前に,国語科通信を書いた。

 

***

 

読書は新しい世界をひらく扉だ。

本は私たちを一歩先へといざなってくれる。

 

今のあなたの読書をもっと充実させたいとき,”書評”がきっと役に立つはずだ。

書評にはあなたがまだ読んだことのない作品の情報が書かれている。

また,書き手の読み方や価値判断も記される。

書評は,作品を多角的につかむことにつながるだろう。

まずは一度チャレンジしてみてほしい。

 

今回はクラスを2つに分けて書評を書く。

プロの書評家・豊崎由美さんの手順を参考にし,クラスのあの人の「読みたい」を引き出す書評にチャレンジしよう。

 

***

 

参考資料は二つ。

 

豊崎由美さんによる「書評活用術」が掲載されたムック本を読む。書評の書き方の手順も分かりやすくまとめられていたので通信でも紹介することにした。

そこから豊崎由美さんの『ニッポンの書評』へ。

とにかく書評について知らなければならないと思っていたので,たくさんの書評例があるこの本は参考になった。批評と書評の違いや,書評にあらすじを書くことの是非が書かれていて細かく書評について知ることができる。大澤聡との対談も面白い。書評の意義を考えさせられる。

ニッポンの書評 (光文社新書)

ニッポンの書評 (光文社新書)

 

 

書評を書くための課題となる教材を探していた時には,このブックガイドが役に立った。

人生を狂わす名著50(ライツ社)

人生を狂わす名著50(ライツ社)

 

 

ちょっとチャレンジしてみようかな。ー9月の振り返り

9月もあっという間に過ぎ去った。

定期テストや学力テスト(業者テスト)の採点・評価業務,文化祭準備による多忙感の中毎日を過ごす。

加えて,来月の校内研修研究授業に向けた授業づくりを考える時間も多くあった。

今は「書評」と取っ組み合っている。市内図書館から書評に関する本をたくさん借りて,書評を書くことにどんな意義があるのか,どんなおもしろさがあるのかを探っている。

 

学習記録のこと

最近は年度当初と異なり,ノートを毎時間集めて点検することをしていなかった。もう学習記録は学習者のもの,自分の作りたいように記録を作ってもらいたいなと思っている。学習記録の自走期間である。

今回は次の単元づくりのヒントになればと思い,1クラスのこの数時間の学習記録を一覧化した。学習記録を束ねるたびに「自分の記録を見直して」と話をするのだが,話をしたタイミングも重なって,明らかに書くことの量と質の変化が見られる生徒がいる。

私が話をする時間が長くなった授業についても,充実のメモと授業記録が書かれている。この集中力の発見は,学習記録の実践を行っているからこそ得られる喜びだ。

ただ板書を写すのではその学習者の腰の立て方は見えてこないのだけれど,授業記録という形で授業後に感じたこと・考えたことを記述することで,学習者の思考が見えてくる。

 

学習記録に励まされながら9月まで来た。

学習記録は学習者のものだけれど,私にとっては学習者への信頼を取り戻すために読むものでもある。きっと彼らならできる,きっと彼らなら何かを創り出す。自分の判断に迷いはあるけれど,その可能性を一つ一つ拾い集めるように,今日も学習記録を読む。

夏の終わりにー8月の振り返り

お盆が明けると北海道ではあっという間に学校が始まる。夏休みは短い。夏休み中に学習記録を読み直して,一人一人の学習状況を把握したいと願ったが,思うような時間は取れなかった。これが現実。

 

夏休みが明けるとすぐにテスト前,授業はテストを意識した進度になる。子どもたちとゆっくり夏を語る間もなく授業を進めなければならないのが心苦しい。今週は中体連新人戦もあり,慌ただしく夏休み後の10日間が過ぎた。部活動が授業と向き合う時間を圧迫している。

 

授業は講義形式が多かった。また,「解説をしてほしい」「黒板にまとめてほしい」といった声もあり,音読や課題提示でグループで話し合う時間よりも板書をして解説する時間が長くなった。扱った教材は,おくのほそ道の冒頭文と宇田喜代子「俳句の可能性」。

 

知識を整理するための解説でやってみたことは次の6つ。

  1. 書く時間と話す時間を明確にする。
  2. 座席の間に入って話をする。
  3. 誰か一人に向かって話す。
  4. 現代の実生活で起こりうる何かを具体例として用いる。
  5. 解説の後にペア,グループでアウトプットする時間を持つ。
  6. アウトプットを経て,個人として授業記録を書く時間を確保する。

 

今すぐに変化は求められないけれど,これから変えたいと思うことは,なぜこれを学ぶのかをうまく伝えられることだ。どうしてもテストとか成績のための学習の意識が前を行く。もっともっと国語の授業には興味深いおもしろい世界があることを実感できる,そんな授業にしていくことに秋冬はチャレンジしたいと思う。

 

夏の終わりに行った雪アイス。いちご。

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知識との闘い。

田村学さんは「深い学び」について次のように述べる。

「深い学び」とは,「知識・技能」が関連付いて構造化されたり身体化されたりして高度化し,駆動する状態に向かうこと(p.64)

深い学び

深い学び

 

夏休み前の授業作文で,「もう少し内容を濃くしてほしい」「物語に深く入ってみたい」「知識をノートにまとめたい」 といった感想が書かれていた。もちろん,これらの記述にはさまざまな学習者固有の文脈があるわけだけど,「知識・技能が…」ということと併せて考えると,読み取ったり新しく獲得したりした知識に対して自分の目があまり向いていないことがわかる。

しかも,軽視というよりは,勉強不足という見取り。自信がなくて,あいまいにしてしまっていることは見透かされている。

「問い」とは何か,といった突き詰めて考えることが必要だなと思う。そのためには,自分がその時点で考えていること,自分の願いを人に話すことが必要だ。話すことで,自分が伝えようとしていることが伝わる具体になっているのか,その他に考えられる余地はないのか,他者の力を借りて自分の文脈を掘り下げなくちゃいけない。

その瞬間その場の判断がその時の申し分ない答えなのだ。

肌寒いくらいの北海道の夜に1冊の本を読む。 

つみびと (単行本)

つみびと (単行本)

 

 丁寧に丁寧に,当事者の物語を紡ぐことを考える。そんなモード。

 

* * *

何気なく流し聞いていたBS放送大学がおもしろかった。

宮下志朗先生のスペシャル講演。

bangumi.ouj.ac.jp

あちらの土地にも、完全な宗教があり、完全な政治があり、あらゆることがらについての、完璧で申し分のない習慣が存在するのだ。

モンテーニュ『エセ―』より


そうそう,「完全」で「完璧」なのだ。

何か足りないとか,劣っているとか言われても,その瞬間その場の判断がその時の申し分ない答えなのだ。

後から振り返ったときに判断するのは,選択の善し悪しではなく,その選択しかできなかった自分の状況の理解なのだなと思う。

 

ただ単に話を聞いていても,自分のこれまでに遭遇した場面と知識がつながる瞬間がある。