放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

藤倉稔さんとお話をする。

1学期の実践の振り返りや授業づくりネットワーク下川集会の振り返りも兼ねて、藤倉さんとお話をする。

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話していくうちに,話題は私が大学院で何を学んだのか,誰と会ってどんな話をしたかと広がっていく。

もっとさかのぼってこの10年間で何を学んできたのか,大学ではどんな学びをしていたのかなど,ライフヒストリーの話にまでつながっていく。

過去をぼそぼそしゃべりながら,私にとって今・これからを見つめる時間となる。

 

「普通に授業をしてほしい」

1学期の授業を振り返ってみて,私の最も課題だと感じることは,教師と学習者の価値の共有だった。つまり,教師にとって良かれと思う方法の選択が,必ずしも学習者にとっての最良の選択ではないということだ。

授業者は学習者に対して,楽しく学んでほしい,わかるようになってほしいと願う。だから,そうではない場面に直面した時に,もっと違う方法はないかと考える。「あの子」のためにできることを考え始める。

しかし,教室では同時に「別のあの子」の学習も並行して進んでいく。授業者の見えていないところで,授業者の認識していない学習の事実が繰り広げられている。

だから「別のあの子」にとって,「もっと違う方法」は有効ではなかったりもする。「え,なんで?」といった混乱が生じ始める。かつてはうまくいっていた自分の学習が,よくわからないまま進められる学習に変化する。その時に学習者が願うことは,「普通に授業をしてほしい」だ。

授業者の感情としては,不安が大きくなる。課題を見つけて行動してみたにも関わらず,何だか別の課題が増えるばかりで上手くいっていない状況にめまいがするようだ。なぜ,自分は自分の願いを手放せないんだろうか。

 

経験から生じる学び方への信頼

もう一つ,大学での学びがその後の学び方への信頼につながることも思い知る。

大学での学びの話になった時に,藤倉さんと私の違いが浮き彫りになった。教育大でのゼミ,タテのつながりの話になる藤倉さんに対して,単独ゼミ(もはやゼミと言えない)所属だった私は,教授とのつながりが思い浮かぶ。正直,大学院に行くまで研究室同期がいる状況ってよくわからなかった。ゼミでの学びを経験する中で「ああ,こんな感じなのか」と初めて見えることがたくさんある。

そもそも,国文学研究室で同学年の所属がいなかった私は,教授と1対1で質問し続けるみたいな学びが深い学びだった。図書館で文献を読み,読んだことを教授を相手にアウトプットし,課題や見えていなかったことをフィードバックしてもらう。この後の方向性やヒントをもらって,また図書館に戻る。自分の見えていないことが見えている存在が近くにいることが重要で,その人に直接問うことが価値ある学びだと思っている節がある。一方で,私の学びは私に閉じている。だれかのためにと考える瞬間に,だれかが見えないこともある。

学び方の実感は時間がかかるものだ。大学を卒業しても10年は学生と同じですよと言われた大村はま先生は,何を大切にして若い頃を過ごしていたのだろう。

価値ある深い学びってなんだろうなと考えるときの自分が持っているイメージは,かなり偏っているものなんだと気づく。

 

足元をつぶさに見ること

視野が広がっていく過程では,学んできたことが自分以外のだれかに伝わらない場面に直面する。

そのたびに足元に戻らなきゃいけない。細部から目をそらさないこと。大きな方法論に問題があるというよりは,ちょっとした言葉の足りなさに問題があったりもするわけで,簡単に「次はこうしよう」と結論付けないことが必要なのかもしれない。

授業づくりネットワークNo.33―あなたの授業を変える12のポイント (授業づくりネットワーク No. 33)

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今井むつみさんの言葉。「いつも見ているはずのものでも,つぶさには見ていない」