放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

電通育英会リーダー育成塾カンファレンス2022感想

https://www.dentsu-ikueikai.or.jp/transmission/leaderconf/

 

1.紙かデジタルかという問いからの脱却

 

 子どもたちの発達段階における学び方はひとまずおいといて、少なからず自分は、手で書くことと、こうして打つこととの両方を駆使して学びつづけている。どちらも共存する中で、自分がその時々の状況に応じて必要だということを「学びながら」選択していく。常に答えが先にあるのではなく、こういう時はこっちが良さそうだっていう学習をしているんだな。

 

2.学び直せる力

 

  「学び直し」ということがいつでも、だれでもできることではないということを私はよく知っている。現職の途中で大学院研修に行ける人間は少数であることも知っているし、こんな年末の日曜午後にオンライン研修を受ける人が多くないこともわかっている。みんな、なんとか手持ちのスキルで逃げ切りたい。だって、学びってエネルギーが必要だもの。

 でも、ほんの少しの希望は、ほとんどの教職員がもう学びが与えられるものではないってことに気づき始めていることだ。

 新型コロナウイルスについての情報も、その社会情勢の変化も、タブレット端末の利用についても、今や現場で判断・決断しなければならないことがたくさんある。誰も次に起こることを予測して教えてはくれない。子どもたちや保護者の反応、起こり得る事態、全て現在進行形で難しいね、って言いながら進んでいる。後から通知がくるなんてことは、最近では当たり前のことだ。使える機関、使えるサポーターをフル動員して、日々アップデートしている感覚である。数年前の提案資料が今はもう使えなくなっている事例がほとんどであって、学校の柔軟さが試されているんだって思った。

 

3.義務教育段階での学びの重み

 

 高大の実践を聞く中で、今目の前にいる中学生がこれらの学びにつながっていくのだと思うと、何が大切なのだろうかと問わずにはいられなかった。

 たとえば、大学でのオンデマンドによる事前学習。今、私は、子どもたちが授業時間外での学習時間とその質をどう創り出すかという問題を抱えている。端末を持ったことで、純粋な教科学習のための動画視聴だけでなく、趣味のためやゲームでの活用をし始める子どもたちがたくさんいる。事前学習を必要とする学びの場で、どれだけの学習者がついていくことができるだろうか。必要に迫られればやるのかなあ。

 冬休みの教員研修で与えられた事前学習動画でさえ、誰か代わりに見た人から内容を教えてもらえばいいかなって考える自分がいるので、やっぱり、学ぶってことに関していえば、もう大人も子どもも変わりはないのかも。

 ぐるっとまとめて、みんなで一緒に考える場が必要なのかもしれない。

 

 今回はリーダー育成塾のプログラムも垣間見ることができたので、教員研修としても、どんなはじめの一歩を踏み出せそうか、引き続き考えたいと思った。

ただ書くー11月の振り返り

作文、ではない、ただ書く実践をしたい。タブレットじゃなくて、手書きで書くことをしたい。その二点から始まった11月でした。

 

ここまで6-7回目の授業が終わりました。

縦書き原稿用紙を横書きで書いたり、ダダイズム的に文字のアートが始まったりして面白いですが、既にマンネリ化が始まってます。

最近の振り返りでは、「ネタが尽きた」ってよく聞きます。子どもたちの表現の多くは、ネタの発表だったようです。どうしよう。笑

それでも、揺るがず、私の基本スタンスは、子どもたちと相談です。

 

ライティング・ワークショップみたいなミニレッスンもなくて、とにかく、誤字だらけ、形式も無視した、表現活動に特化した時間を週末1時間だけ帯単元で続けています。

 

ねらいは1点。自己表現です。

フィクションでも構わないので、自分語りをとにかくしてもらえたらと思っています。

そんなこと無視して、クラスの友だちのことばっかり書いているクラスもあるけれど、友だちをどう見ているかっていうのも、ある種の自分自身の見方の表出なので、めちゃくちゃ良いです。

探究につながるほどの継続したテーマはまだ出てきていないけれど、書くことがコミュニケーションの場になりつつあるのかなって思っています。

書かなくても、他の人が書いたのを毎時間読んでいるので、読むのを聞くだけでも対話になっておもしろいです。

 

とにかく、授業を面白いと感じることが、今一番、学校で必要なことのような気がしています。

私自身が書いたものを通して、子どもたちの今の姿を見つめられるのも良いです。

 

かなり実験的な授業ですが、週末の授業が楽しみになるってことは、大切なことだと思います。

現場の実感ばかりで、なんの根拠もありませんけど、子どもたちの多くは楽しそうです。

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最近は写真のライブラリがジャニオタばかりです。写真部の活動が停滞気味でアイキャッチになる画像がないな。

9・10月の学校のふりかえりー作文発表会から文化祭,軽井沢訪問まで

 

 10月に入って,イベントが目白押しで,感情の起伏が大きい2週間程度を過ごす。

 

 ただ,楽しみなことの移動中は,色々なことを思い出したり思考したりすることができる。もうちょっと自分の過去の記録を読み直してもいいかもしれないなあと思う。それから,一人一人ともう少し向き合いたいなあとも思う。自分にとって移動の時間は,省察の時間なんだなあと気づく。オンラインの研究会だったので気づかなかったけれど,研究会後の帰り道のつぶやきとか,移動の時間がとても学びに必要なことだって知った。

 

 特に考える時間が多かったのは,形式や正誤にこだわらずに書き続けるということだった。誰かに読まれるためではなく,ひたすらに自己表現をし続けるということが大切な気がしてきて,この週末の授業は,1時間だけひっそりと「ただ書く」という授業をする。

 とはいえ,何もテーマがないと書けない人も多いことは知っているので,「最近気になっていること」というざっくりとしたテーマだけ共有した。テーマに沿ってもいいし,そうでなくてもよい。「ウソ日記」の面白さを知っているので,大抵の子たちは楽しく書いているようだった。

 「気になることがない」という子が各クラスに一定数はいて,「気になることがない自分」について書いているのを勧めてみると,とても興味深い表現が出てきて,ただただおもしろいなあと思う。「いいね,いいね」と言いながら,いくらにでも見方は変えられるんだって思う。すると,心が軽くなる気がした。

 

 来週は,公開してもいいよという子の文章を読んで,また書き続けようと思う。

 

 移動中は,石井光太さんのレポを読み続けた。たくさんの子どもたちのことを思い出すことができた。

 

浴びたい。

LIVEが好きだ。

リモートでは得られない、身体がぞくぞくするようなLIVEの感覚が好きだ。

人の息遣い、言葉の強さ、生きる表情、イントネーション、その全てを直接感じたいのだ。

 

気づいたら、自分も似たような振る舞いになってしまっているかのように。

気づいたら、自分の言葉になってしまっているかのように。

 

確かに、学びが私の身体に溶け込んで、私自身との境目がなくなるほどに、私は新しい何かを浴びたい。

生活を言葉にして共有することの価値

 文化祭を前後して,生活体験文の授業に入りました。生活体験文とは,おそらく綴り方教育の流れの上にある実践なのだと思いますが,私が勤務する地域では多くの中学校で夏休みの課題として取り組まれているものです。特別にミニレッスンをすることなく,宿題として作文を読みました。

 ジャンルとしての課題はあって,単なる説明文になってしまうなど,気になることは多々ありました。ですが,課題を見ようとするとキリがないですし,課題を指摘したところで「作文」に対するモチベーションが下がってしまうのは子どもたちの様子でわかります。とにかく良いところを見つけてフィードバックすることを心がけました。

 

 授業が終わって,「先生はなんでそんなにフォローができるんですか!?」と聞いてくる生徒もいました。こちらも頑張っていることをよく見ています。笑

 

 どんな作文も,その人のきらりと光る表現があったり,構成が優れていたり,聞き手がわかりやすいように噛み砕いて表現する工夫があったりします。原稿用紙半分しか書いていなくても「端的に内容をまとめましたね」「〇〇という言葉に筆者の感情が凝縮されています。この言葉があるかないかでは読み手の受け取り方が変わります」なんて言ったりします。笑 フィードバッグできない作文はないわけですね。この辺りは『一言作文』の実践で培ったスキルなのかなと振り返る瞬間がありました。

 人間関係も少しずつ見えてきているので,発表後にコメントをし合ったり,他の人の内容と比較してみたりする場面も設定しました。発表の仕方が優れている人の,「何が巧みなのか」分析してみるのも面白かったです。

 

 一番のハイライトは,休みがちな生徒たちの活躍でした。秋休み前の終業式だったため,通知表を受け取ることを目的に登校した生徒がいます。秋に差し掛かって,勉強の内容についていけなくなる生徒,人間関係に悩み出す生徒が見えてきていました。でも,クラスの約30名の体験を持ち寄って耳を傾けていると,それぞれの知らないところでいろいろな体験を積み重ね,悩みや葛藤を抱えながらみんな暮らしているんだと知ることになるのです。

みんなの発表を聞いて,気持ちが楽になった。

 

勉強が苦手なのは自分だけじゃないって知った。

 ある生徒はこんな振り返りを書いていました。

 表現することで自分とはどういう人間なのかを考え,それを発表することで,実は自分だけが悩んでいるわけではないことを知る。そこに作文発表の価値があるのだと思う1日でした。 

 

 

わかりあえない研究協議で何を見つめるか?

 私が初めて公の場で研究授業をしたのは10年前のことです。当時、札幌でファシリテーションの講座に参加し、思考が拡散していくワールドカフェに夢中になりました。ワールドカフェを国語の授業でやりたくて、自分から地域の研究会の授業者に手を挙げました。話すこと聞くこと領域の授業としての公開でしたが、多くの国語科教員は読むこと領域に一番の関心があるので、比較的少数の参観者でした。それでも、ファシリテーションに関心があった他教科の先生も足を運んでくださって、事後の研究協議で嬉しくなったのを今でも覚えています。

 それから、何度か研究授業の場に立たせていただく経験をしながら、毎回あることに気づきました。それは、自分自身の学びが、授業前で完結してしまっていることです。指導案を作る過程で自分の課題が見えたり、次はこうしたいなと思うことがあるわけです。

 それで、事後研究会で先生方から質問やご意見をお1人ずつ伺うと、大体は授業構想段階で迷ったことだったり、自分でも難しいなと思っていることだったりします。代案を示されても、私が本来目指したい方向ではなかったりします。そんなことがあって、事後の研究協議ってどうあるべきなんだろう?と疑問に思っていました。

 そんな中で大学院生になり、たくさんの研究校の事後検討会に参加する機会をいただきました。大学附属学校の研究会はもちろんですが、公立学校の校内研修にも数校参加させてもらいました。そこでは、ファシリテートが上手く機能している事後研とそうではないものが存在していました。

 あくまでも主観ですが、上手く機能するというのはどういうことかというと、参観者が授業者の一番やりたいことを掴んで話をしているということです。わかりあえないのを前提にして、「きっとこの先生はこれをやりたいんだな」と考え、同じ方向を向いて話し合っているのです。

 授業を見る観点は、参観者の数だけ幾重にも存在します。だから、どこからでも批判はできるし、どこからでも評価はできます。でも、研究授業は、授業者や研究協力者がもともと成し遂げたい課題があって(やりたいことがあって)、形作られていします。だから、本来、その先生、ひいては、その先生を通じて参観者自身が、授業の根底にあるものを見つめ直し、ズレや気付きを明らかにしていく過程が事後研究では大切なんだよな……と思います。

 そうそう、コルトハーヘンが言っていましたよね。

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ずっと実感していたことですが、今になって、やっと言葉にできた気がします。

 

久しぶりの合唱コンクールは何が変わったか?

 私が暮らす地域では,今日,文化祭という学校が多いようです。

 初任から生徒会を担当してきた私は,この季節が一番の繁忙期だと思って過ごしてきました。特に,生徒会企画でどんなオープニングセレモニーをするのかが難問でした。すぐには良い案が浮かばないので,結局本番ギリギリまで修正・準備をして臨んできたわけです。計画通りにはいかない,学校イベントの醍醐味でもあります。

 今年は学校における立場がいつも通りではなかったですし,そもそも文化祭自体の開催がコロナ禍以降行えていなかったので,合唱コンクールならではの言葉や感覚が久しぶりに蘇ってきました。もちろんマスクをしての合唱練習は,子どもたちの口の動きが見えなかったり,発声により苦しくなってしまったり,さまざまな困難があります(逆に,歌ってない子が目立たないということも起こります…笑)。感染拡大防止の観点で,一人一人の間隔を空けての指導をすると,やはり周りの声が聞きにくいと言った子どもたちの声も聞こえてきました。

 それでも,毎日1時間の合唱練習をどのように運営していくか,音程の取りづらい男声やアルトパートの練習でどんな工夫ができるか,ソプラノの声質をどう作り上げていくか,サポートするための方法はいくつもあったように思います。なんと言っても小学校から含めてこの3年間まともに歌ってこなかったので,かつて学んだ本を思い出しながら,教えられることは幾重にもあるなぁと思う,そんな状況でした。

 国語科としては,やはり曲の言葉に着目してもらいたいという思いがあり,歌詞を国語の授業で朗読して,問いを立てて話し合う授業をしました。あるクラスでは,とことん問い立てして,その中で重要な問いについて話し合いました。またあるクラスでは,合唱係が書いた歌詞の模造紙を前面に貼り,何度も繰り返されるフレーズに注目して吟味しました。この短期間で歌い方に集中してきた生徒は,「初めて歌詞の意味を考えた」と振り返る人が少なからずいます。

 そして,今年はたまたまあるクラスの音楽の授業にも参加させてもらうこともできました。そこでは音楽の先生が言葉に着目して指導されているのを知ります。音楽科としての専門的なアプローチではどういう表現力の指導ができるのかも学ぶことができました。

 正直に話すと,合唱コンクールのようなイベントは生徒も教師も,自分たちが思った以上にエネルギーを費やしてしまうため,前後の日常に支障が出ることも否めません。しかし,日常生活では見ることができないあの子の姿や,一つの課題に対して教科を超えた学習の場が生まれたのも事実です。