放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

6月に読んだ本

道徳の授業でいじめがテーマだった6月。いじめに関する作品をいくつか読む。 

ナイフ (新潮文庫)

ナイフ (新潮文庫)

 

 2000年なんだな。

ニュースになることだけが事件じゃないと思わせてくれる。 

 

能町さんはテレビでおしゃべりする姿が好きでよく見る。

私以外みんな不潔

私以外みんな不潔

 

私が何も言わないうちに花川先生は言葉を継いできて,さらに私は三度目となるべき「ありがとう」を重ねなきゃいけないことはわかっていたのだけれど,やらなきゃいけないこと,思わなきゃいけないことが大きすぎて,私が知っている言葉の選択肢のなかからは何も出てこない。

言いたくても言葉を継げない瞬間がある。誰にでもある。

それなのに,相手が言葉を継ぐのを待てないことはなかろうか。

 

インプロの研究からの派生で。 

パフォーマンス心理学入門?共生と発達のアート

パフォーマンス心理学入門?共生と発達のアート

 

 

隣に立って見つめる。―6月の振り返り

評価の現実と向き合い続ける6月。

評価・・・というか,評定。「絶対評価」の意味を考える。テストの公平性も考える。

20数時間の授業の中で,生徒の姿をどれだけ描き出せるというのだろう,と思う。

 

評価は大きく3つの役割がある。

一つは学習者自身が自分の学びを振り返って自身の成長につなげるため。

一つは教師の省察のため。学習者の姿を評価して授業改善につなげるため。

もう一つは,制度としての評価・評定のため。受験にもつながる評価。

 

夏休み前の評定作業は,3つ目のために時間が費やされる。

本当に子どもたちのための評価ならば,もっといろんな側面から見つめて表現することが必要だと感じる。一定の基準があることは評価のしやすさがあるけれど,一つのものさしで見えることは本当に狭いということを忘れてはいけないと思う。やりやすさは,一方で零れ落ちるものを見放すことでもあると実感する。

パフォーマンスを積み重ねながら,時に重要な気づきに出会っている姿を,一緒に言語化・焦点化しながら次の学習に必要なことは何かを考える。対面で立っていても学習者には届かない。隣に立って,膝をついて,一緒に机に向かって,初めて見えることがある。

 

学習記録は1度目の中期的振り返り期になる。

学習者が時々吐露する評価の目のしんどさを,言葉の端々から受け取る。 

一人ひとりをいかす評価: 学び方・教え方を問い直す

一人ひとりをいかす評価: 学び方・教え方を問い直す

 

鈍感になっていく。

運動会,中体連…と目まぐるしく初夏は過ぎて行った。

年に数回訪れる,繁忙期である。

気づくと定期テスト作成,採点,成績づけ。締め切り仕事は悠長に構えると痛い目に合うので気が抜けない。加えて,こうした仕事は細かなミスが許されないものが多い。チェック機能までを含めて仕事という。粛々と進めるものだ。

 

仕事が生活時間の多くを占めていく中で,書く時間,考える時間をどのように自分の生活の中で位置づけるのか,もう一度考えたいなと思うようになった。

 

そんなことを考えながらブログの管理画面を見ると,過去記事が目に飛び込んでくる。
keynote.hatenablog.jp

 

過去に書いたものは,今の自分を立ち止まらせてくれる。

 

ふと、珍しく買った群像が目に入る。

追悼 加藤典洋を読む。

 

志村ふくみ展

教育出版の教材に、大岡信「言葉の力」という教材がある。印象的な、桜で糸を染めたときに染め上がる色の話がある。

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志村ふくみ展は、そんな色の興味だけで見られるものではなかった。色に対する哲学、孤独の中で色と織物で表現する極限を目の当たりにする。

 

「文学がまたとない教材になり得る」―5月の振り返り

 5月連休明けの学校は,運動会に向けた学級・学年としての取り組みがメインとなる。朝練,外での学年練習,総練習と,非日常の1週間が続いた。

 そんな中で,国語科授業は粛々とルーティーンの漢字テストが始まる。定期テストに向けてテスト範囲も意識するようになり,一斉講義型の授業も多くなる。メインとなる単元は小説『握手』で登場人物の行動描写から人物像を解説することが課題となった。今回は同一課題,同一学習活動で展開したわけだが,やはり個別の課題意識とのズレや関心意欲の違い,活動の進度が気になった。

個別のやり取りの中で読解を促す方法が定着してきた

 ただ,個別の解説文を書く時間では,学習者との対話の場面で今まではできていたかどうかわからなかったことが,ずいぶん意識化されて自分の技として定着していたのではないかと思う。

例えば,行動描写から登場人物の人物像を考える場面でいまいちぴんとこない時,

  • 思考を促す言葉を渡す
  • 動作化を促してみる
  • 描写とは逆の場合を想定してみる
  • 類語辞典などのツールを活用して学習者自身で学ぶ方法を提示してみる

などの具体的な方法を選択して,学習者と話をすることが多くなった。過去に尊敬する先生たちがどのように子どもたちと関わっているのかを間近で見る機会があって,その姿が思い出される瞬間もあった。強く「いいな」と思っている姿は,多少安易ではあるが,ちょっとした場面で自分も真似したくなるものだなと思う。

 そして,自分がどんな言葉がけをしているのか意識してみると「いいね」という承認の表現が多いことにも気づく。何気なく使う言葉の背景には,自分のありたい姿が見えてくるようで,再考する場面が多くあった。こうした教師の言葉を意識するようになった背景には,次の本の影響も大きい。

言葉を選ぶ、授業が変わる!

言葉を選ぶ、授業が変わる!

 
 単元の先にある願いを意識するようになった

 また,課題設定した”人物像”や”行動描写”について,なぜ学ぶのかを考えるようになった。まだ課題設定の言語化はうまくいっていないが,射程は一つの作品を読むことにとどまらず,広く日常生活にも生きる視点で学習の価値を考えることだ。このことを重視するようになった自分がいる。

 ちょうど,全国大学国語教育学会のシンポジウムのテーマが文学教育における「深い学び」だったが,その中で「文学がまたとない教材になり得る」ことが話題となっていた。私たちの生活が言葉によって認識をしていること,そして,読むことによって自分の体験を掘り起こしていることを改めて考えさせてくれる単元だった。

石川晋in 札幌カフェ2019年度連続10回講座 その1「腕を上げたい学級通信」

石川晋さん含め,参加者10名。これならなんとか顔を見ながら安心して話が聴けるんだな。学級通信にしても,合唱指導にしても,「だれに届けるか」を大切にする石川晋さんらしい会だった。

新版 学級通信を出しつづけるための10のコツと50のネタ

新版 学級通信を出しつづけるための10のコツと50のネタ

 

参加しての気づきは2点。

 一つは,今の自分があれもこれもと考えないようにしていること。私にとって通信は,子どもたちと教室の出来事を共有するツールになるはずだった。特に,学習記録の個別の記述を学級の場で共有するツールとして機能するはずだった。でも今は,共有するための別な方法があるなら,通信じゃなくてもいいかなと思うことが多い。直接「こんなことがあったんだ」って話すときの方が多くなっている。もしかしたら,自分の見方を紙に残すことにためらいもあるのかもしれない。それで,積極的に通信を活用しようと考えなくなっているんだなと思う。

 もう一つは,丁寧にコメントする姿を見せること。大学院での授業で,最初は先生がコメントする姿を見せ,徐々に学習者でコメントする,段階的な譲り渡しの場面を見た。「モデルを見せる」ことが教授方法としてあることはもちろん知っているのだけど,その価値を実感したのは大学院でだった。今回,学級通信においても教師のコメント力がその質を分けるのだと知る。授業においても,曖昧になりがちな学習者の表現に対してどこに着目してコメントするかによって学ぶことは変わってくる。通信は,知らず知らずのうちに,コメントする姿を教える機能を果たすのだなと思った。

詩と出会う体験

 振り返りとは,自分の行為を問いを持って考えることなんだなと思う。

学習者を見ているとただ「単元をふりかえろう」と言っても表層的な実感しか言語化されないのだけれど,一つ問いを投げかけるだけでまったく違った質の振り返りが展開される。

詩ってなんだろう (ちくま文庫)

詩ってなんだろう (ちくま文庫)

 

今回の単元の中では,結局「自分たちにとって詩ってなんだろう」という問いが,振り返りの視点で重要な問いだった。授業の中でさまざまに詩と出会ってきてはいるけれど,どこか答えを探す読みになっている自分に気づく。 だけど,一度書き手になる体験をした学習者,自由に読み味わう体験をした学習者は,次第に生きていく中で詩と触れ合うことのおもしろさを再考しはじめる。

もちろん,授業運営自体には事前に検討すべきことがたくさんある。特に年度当初の限られた時間の中では配慮すべきことがたくさんあった。学習者の活動時間を保証することと,年間の指導計画内で運営をすることの難しさはいつまでたっても課題である。

そんな中で,私にとって一番のインパクトだったのは,学習者自らが詩を探して紹介し始めた瞬間だった。やはり,教科書掲載の1編の詩では,詩と出会うには足りないのではないか。改めて考えさせられる経験だった。