放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

時間や出来事を共有する。

中堅教諭等研修1日目。プログラムは,北海道の教育の現状(学力,体力,コミュニティースクール,小中一貫教育),学校組織マネジメント(SWOT分析,校内研修)。

 

学び手への信頼

学び方は,4人グループによる実態交流形式で,全体共有もほぼなし。教員が集まってしゃべるのだから,話題もそれなりに多岐に渡る。3日間通じてグループを替えながら交流していくのだから,十分に時間が与えられれば私たちは勝手に学んでいく。5年研の時よりも,学び手への信頼が感じられて嬉しい。

10年のキャリアは,それなりに一人一人の強みの教化,人事異動による所属校の環境要因を含めてそれぞれの教員を変化させる。十分に共通の課題を話し合う信頼関係もあるし,違いから見える新しい視点もある。

何より、ファシリテートする先生の状況の見取りがすばらしいのだと思う。課題も活動内容も時間の設定も、進行を妨げなかった。

 

学習の履歴を大切にしたい

小中一貫教育を推進する上での現実的問題については関心を持った。勤務校の現状ばかり目が行くので普段はあまり考えないことだ。

一人一人の学び方や強み,次の学びへの方法の選択を考える時に,学びの履歴は大切だと思っている。中学生の学びに対する認識も,小学校での学びの経験が強く反映されていることを実感する。いい意味でも悪い意味でも,中学校への進学をきっかけに「変われる」点は利点だ。しかし,いろいろな学びがリセットされるのでは意味がないなとも思う。何かを統一するとか足並みそろえるとかだけではなくて,時間や出来事の共有が,その子どもに関わる人たちでできること,それが一貫教育のいいところだと思う。

こう書くと夢想しているだけの自分を認識するのだけれど,この辺りは教師の側の学び方の認識,価値観も含まれてくるのでもう少し自覚的に考えなくちゃなと思った。

 

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www2.hokkyodai.ac.jp

エデュケーションアゴラで武藤さんのお話を聞いてから3年半経った。

 

書くことのプロセスで生まれること。

夏休み前、テスト前。

先のことを考えると優先順位が変わって、時間に余裕がなくなっていく。計画の足りなさが露呈する。

時間がないから、ついつい締め切りや完成に目が向く。終わらせる学習になる。

 

はっと現状に気づかせてくれるのは、学習者の記録。書いている途中での気づきに目を向ける。

最初は考えられなかった新しい発想、こういう題材ならいくらでも書けるといった自己認識、資料活用など執筆方法の再選択、筆者へのリスペクト…そんなことが実感として生まれればそれで学習としていいねをあげたい。

 

どんな気づきがあったのか自分に問いを向けることで、書くことの学習の価値を自分の中に根付かせる。

 

自分の目と向き合う時間を持てているか

近くの大学図書館で1冊だけ本を読む。

「読み書きが苦手な子」のアセスメントのページで,自分に自信がない子や自分と向き合うことを苦手とする子の話があった。

苦手な生徒にどうアプローチするかの論考はよく見られるのだけれど,この本では苦手になる要因を挙げていた。そのうちの一つに,自分に自信がないから教師の求めることを読んだり書いたりすることを学んでしまうことが書かれていた。

自分の気持ちを見つめること,自分の本当に読みたいこと・書きたいことを考えること,そして自分で決めること。今,私が学習活動を考える上で最も重視していることだ。

本を読みながら,自分自身の学び方にも内省が起こる。自分自身も学習者としてそうだったなぁと思う。答えを探すために情報探索している節もある。どこかに自分が抱える問題の答えがあるかもしれないと思っている。本当の問題は,問題の本質に気づけていない自分自身の中にあるにも関わらず。

 

評価の問題とも深く関わっていると思う。過度に教師の評価の目を植え付けることの怖さを思う。自分で知りたい・学びたいと思ったことを学び,学習過程を振り返って自分で善し悪しをジャッジする力をつけていくことが必要なのであり,一律の基準でパフォーマンスを裁くやり方には問題がある。

結局,誰かのジャッジを待っているだけで,自分の書いたものにいつまでも自信が持てない。自信が持てないから書きたいと思い続けられない。

評価が常に他者であることの問題を思い出した。

6月に読んだ本

道徳の授業でいじめがテーマだった6月。いじめに関する作品をいくつか読む。 

ナイフ (新潮文庫)

ナイフ (新潮文庫)

 

 2000年なんだな。

ニュースになることだけが事件じゃないと思わせてくれる。 

 

能町さんはテレビでおしゃべりする姿が好きでよく見る。

私以外みんな不潔

私以外みんな不潔

 

私が何も言わないうちに花川先生は言葉を継いできて,さらに私は三度目となるべき「ありがとう」を重ねなきゃいけないことはわかっていたのだけれど,やらなきゃいけないこと,思わなきゃいけないことが大きすぎて,私が知っている言葉の選択肢のなかからは何も出てこない。

言いたくても言葉を継げない瞬間がある。誰にでもある。

それなのに,相手が言葉を継ぐのを待てないことはなかろうか。

 

インプロの研究からの派生で。 

パフォーマンス心理学入門?共生と発達のアート

パフォーマンス心理学入門?共生と発達のアート

 

 

隣に立って見つめる。―6月の振り返り

評価の現実と向き合い続ける6月。

評価・・・というか,評定。「絶対評価」の意味を考える。テストの公平性も考える。

20数時間の授業の中で,生徒の姿をどれだけ描き出せるというのだろう,と思う。

 

評価は大きく3つの役割がある。

一つは学習者自身が自分の学びを振り返って自身の成長につなげるため。

一つは教師の省察のため。学習者の姿を評価して授業改善につなげるため。

もう一つは,制度としての評価・評定のため。受験にもつながる評価。

 

夏休み前の評定作業は,3つ目のために時間が費やされる。

本当に子どもたちのための評価ならば,もっといろんな側面から見つめて表現することが必要だと感じる。一定の基準があることは評価のしやすさがあるけれど,一つのものさしで見えることは本当に狭いということを忘れてはいけないと思う。やりやすさは,一方で零れ落ちるものを見放すことでもあると実感する。

パフォーマンスを積み重ねながら,時に重要な気づきに出会っている姿を,一緒に言語化・焦点化しながら次の学習に必要なことは何かを考える。対面で立っていても学習者には届かない。隣に立って,膝をついて,一緒に机に向かって,初めて見えることがある。

 

学習記録は1度目の中期的振り返り期になる。

学習者が時々吐露する評価の目のしんどさを,言葉の端々から受け取る。 

一人ひとりをいかす評価: 学び方・教え方を問い直す

一人ひとりをいかす評価: 学び方・教え方を問い直す

 

鈍感になっていく。

運動会,中体連…と目まぐるしく初夏は過ぎて行った。

年に数回訪れる,繁忙期である。

気づくと定期テスト作成,採点,成績づけ。締め切り仕事は悠長に構えると痛い目に合うので気が抜けない。加えて,こうした仕事は細かなミスが許されないものが多い。チェック機能までを含めて仕事という。粛々と進めるものだ。

 

仕事が生活時間の多くを占めていく中で,書く時間,考える時間をどのように自分の生活の中で位置づけるのか,もう一度考えたいなと思うようになった。

 

そんなことを考えながらブログの管理画面を見ると,過去記事が目に飛び込んでくる。
keynote.hatenablog.jp

 

過去に書いたものは,今の自分を立ち止まらせてくれる。

 

ふと、珍しく買った群像が目に入る。

追悼 加藤典洋を読む。

 

志村ふくみ展

教育出版の教材に、大岡信「言葉の力」という教材がある。印象的な、桜で糸を染めたときに染め上がる色の話がある。

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志村ふくみ展は、そんな色の興味だけで見られるものではなかった。色に対する哲学、孤独の中で色と織物で表現する極限を目の当たりにする。