放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

学習指導要領の系統的な文言の違いについて説明できるか?

次年度の新学習指導要領実施に向けて,改めて指導要領を読み直している。

 きっかけは,校内研修で3観点の評価をどのように行っていくか,という議論の中で,そもそも3観点のそれぞれの目指すべき姿が何なのかをぼんやりとしか認識していない自分に気づいたからだ。

 

学習指導要領を読む意味とは 

 教科の目標(目指すべき子どもたちの姿)があって,どのような授業を展開し,どのような力がついているのか,学習状況を見取って評価をしていくことになる。日頃,私は,学習指導要領”だけ”でしか授業の価値を語れないようではダメだと思っているが,一方で,学習指導要領は自分の思いだけに偏りすぎて忘れがちなことを改めて問い直すものだとも思っており,定期的に読む必要があると思っている。評価のあり方を考えるには,目指すべき姿が分かっていることが必要になるだろう。当たり前なことかもしれないが,学習指導要領で授業を考えることも大切なことだと思う。

 

「大切にして」と「関わる」の違いとは?

解説を読んでいると,系統的に書かれた言葉の違いに気づかされる。

 

 例えば,高校国語でも注目される「論理」について,中学校では2・3年生の思考力・判断力・表現力等の中で,考える力として「論理的」という言葉が書かれている。その前段階である,1年生では「筋道立てて」とある。「筋道立てて」と「論理的」の間には,どのような違いがあるのだろうか。

 また,学びに向かう力,人間性等の項目では,言葉がもつ価値について,1年生は「気付く」2・3年生は「認識する」とある。この2つの違いは何だろう。グラデーションがあるにしても,系統的に書かれている以上,どのような状態が「気付く」「認識する」なのか,教えるプロとしては,具体的な姿を言語化できないといけないよな,と思う。

 極め付けは,我が国の言語文化に関する文言である。1・2年は「言語文化を大切にして」だが,3年生は「言語文化に関わり」とある。言語文化に関わるとはどういうことだろう。多くは2・3年が共通で,1年生だけ異なる文言が多いが,ここは3年生だけが異なる。義務教育の最終段階として「言語文化に関わる」生徒とは,一体どんな生徒なのだろう。

 

 …とこのように,学習指導要領は抽象的に表現されていて,よく言えば各教師の現場の実情に合わせて解釈する余地が残されている。解説だけ読んでいても学びの切実さは生まれないが,私たちは目の前にいる子どもたちが長い目で見て幸せに生きられるために,どんな教育を形作っていかなければいけないのだろうか。解説を通して改めて問い直すことも多い。

コロナ危機の中での対話と挑戦ー11月の振り返り

迫り来るコロナ危機の中で

 北海道の新型コロナ感染者が急増する中で,現実的な対応に追われる11月だった。

 実際に近隣の小中高等学校で陽性者が発覚して学級・学年閉鎖が起こり,家族が陽性者の場合どうするか,学年閉鎖・学級閉鎖の判断をどの段階でどのような基準でするのかなど,検討しなければならない事案が一気に沸いた。保健所からの対応を初めて具体的に見聞きすることも場面も多くなり,迫り来る問題に議論しなければならない時間が増えた。

 感染不安も高まり,出席停止扱いで欠席をする生徒も見られるようになる。一方で,休んでいる間の学びの保障をどのように行っていくか,もし受験期で同じようなことが起こった場合,どのような対処を考えておかねばならないか……不十分ながらできることはなんだろうかと考える時間も多くなる。

 ひとまず,今は個別の対応を丁寧に,一人一人と対話をしてどんなことに困っているのかを共有することから始めたい。私たちができることはこのくらいでしかない。

 学級は,再び給食が無言となったけれど,どんな学習活動もゼロにすることなく,安心して学校生活が送れることを優先しつつも,できることを考えて取り組んでいく。

 

 朝読書の時間もコロナ対応を考える本に手がのびる。切実だ。

 臨時休校後の対応がメインで,すでに学校再開している今ではすでに状況も変わっている部分が多いことを感じる。目まぐるしく状況は刻一刻と変わっているのだ。

 

懇談を通しての実感

 そのような中で,二者懇談,三者懇談が実施された。当初は感染拡大の恐れもあって中止にする判断も検討されたが,幸いにして近隣では一旦の落ち着きを見せたところで実施の運びとなる。それでも,懇談をキャンセルするご家庭や電話懇談を希望するご家庭も多く見られた。対面での懇談も,できる限り距離をおいて着席,極力短時間で終わり,間の時間に換気や消毒作業を徹底しての懇談となる。

 懇談内容としては学習相談が多いけれど,私に何ができるだろうかと自問自答する場面が多かった。懇談はとにかく聞くことから始まる。できることなら,「こんなんだったらまたやってもいい」と思ってもらいたい。単なる日頃の小言を言う会ではなく,一人一人のこれまでの成長や頑張りに焦点を当て,これからの活動を勇気づける懇談になったらいいなと願う。

 一方で,三者懇談は成績をテレビ画面に提示しての懇談。迫り来る進路選択を前に,現実だから仕方ない部分もあるのだけれど,少し心が冷える。自然と厳しい言葉が増える。ここ,マインドセットが必要だったなあと思う。前向きな,次の行動につながる懇談のあり方ってなんだろうかと考えさせられた。

 懇談日程が終わった週末に,大野睦仁先生と千葉孝司先生の研究会に参加する予定だった。このご時世なので会は中止となってしまったが,その分千葉先生の本を読み直す時間ができた。

WHYとHOWでよくわかる!  不登校 困った時の対応術40

WHYとHOWでよくわかる! 不登校 困った時の対応術40

  • 作者:千葉 孝司
  • 発売日: 2019/11/28
  • メディア: 単行本
 

 とにかくこの本で示される生徒と教師のやりとりが温かい。不登校対応に限らず,生徒との関わり方を考えるヒントとなる本である。肯定的な関わりが信頼関係を築くという当たり前なことを,具体的な教師の言葉を通して学ぶことができる。懇談から次の行動をどう起こしていくかのイメージを膨らませることができた。

 

新単元のチャレンジ

 国語科授業では,向田邦子「字のない葉書」で人物の描かれ方を学ぶ単元に進む。今回は定期テストもひと段落して,チャレンジ単元となった。生徒の現状の課題を洗い出すような,少し無謀なチャレンジでもあったが,今まで見ることがなかった生徒の一側面を見ることができた単元となる。

 具体的な展開として,コース別学習を実施。これは9〜10月に実施した「博士ノート」の単元の発展形で,今回は班ごとに分担して発表する形式を選択する。

 

keynote.hatenablog.jp

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  コースは次の4つで行った。

  1. 父の人柄と私の心情を表す言葉を中心にまとめる「人柄心情分析コース」
  2. 父の行動描写を中心にまとめる「行動描写分析コース」
  3. 父が主人公に送った手紙を再現する「手紙再現コース」
  4. 父と下の妹の再会場面を再現する「場面再現コース」

  前回はコースが多すぎたことが課題として感じられたので,今回は一つの学習活動にじっくり取り組む仕組みに変更した。「なってみる学び」の影響もあって,コースの一つには場面を再現する学習も取り入れてみた。

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 とはいえ,コロナ禍での学習活動とあって,一工夫必要となった。単純に演じるというよりは,再話のような紙芝居やペープサート,模型を使った表現も多く見られた。

 結果として,「なってみる学び」は初めての学習活動ということもあり,イメージを持つまでに時間がかかってしまった生徒が多く見られた。これは手引きの問題もあろう。

 また,リハーサルの価値をあまり理解していない生徒は,「何度も繰り返しやってみる」ということができず,座学で悩む時間が多すぎるという課題が見つかった。 「やってみる中で気づく」ことは体験の中で獲得していく価値で,たくさんの失敗を重ねていくうちにブラッシュアップされることが,生徒の学び方として浸透していくにはどうしたらいいのかなと,学習過程で私が悩んだポイントだった。

 中学生ということもあり,人前でのパフォーマンスには多少のハードルもあった。チャレンジバイチョイスとはいえ,評価の側面もちらついてしまう中学生には葛藤の多い学習活動だったのかもしれない。

 それでも,たくさんの学習課題が見つかったのはよかった。一斉指導の中では見られない,一人一人の工夫や学習活動を行う上での困難をより強く認識することができた。また,今年度初めての発表形式での授業だったが,グループでの協調性や相手の気持ちに寄り添ったコメントと批評など,思いがけない生徒の精神的な成長の場面も感じられる単元となった。

 コロナ禍での対話を伴う学習活動は今後も慎重にならざるを得ないが,関わりを持ちながら学ぶことの尊さを改めて実感する単元であった。

【メモ】石田佐久馬(1964)「発問・板書・ノート」

新型コロナの第3波の対応に追われ,先週から二者懇談,来週は三者懇談と続き,学校現場は常に疑問と不安と決断に迫られている。

1・2年生は希望制で今回は見合わせるという家庭も多いだろうが,3年生は受験を控え気が気じゃない。コロナの心配もありつつ,進路決定の最終確認として三者懇談を実施しないわけにはいかないだろう。ネット環境整備にはまだまだ時間がかかる。

これが学校現場の現実である。

 

今週はノート指導に関する読書も停滞気味で,今日はメモのみ。本日はこちら。

 石田佐久馬の他の著書。

 筆者はお茶の水女子大学附属小学校の教諭。小学生のノート指導がメインである。「自己教育力」がテーマであり,一貫して学習者自身が学びを進めていくためにノートはどうあるべきかが石田の問題意識である。

 

以下,引用とメモ。

 

教師側から見たノートの機能【授業評価,実態把握】

p.205

(※要約:教師が授業参観でノートをのぞき込むのは)参観以前の学習のようすを知るためにノートを唯一の手がかりにしたいからである

石田のノート観【一律への批判】【個性重視】 

p.206

ノートは授業の鏡である

 

ノートを通して,教師の新しい国語教育に対する考え方がほぼ見当がつくものである。新しい国語ノートは,新しい指導理念をすじがねにしたものでなければならない。新しい指導理念からは,必然的に新しい授業が生まれるはずである

 

 わたしたちは,むかしのような固定化した平板なノートからぬけ出して,ひとりびとりの子どもが真に愛着を感じるような生きたノート作りをしなければならない。

 これまでのノートに与えられた役割と石田の問題意識

pp.207ー208

過去の国語教育が,文字言語にかたより,なかでも文章の読みを第一等の地位にすえていた。したがって,ノートの使命は,文章の読みに奉仕することとされていた。そのこと自体はまちがいではないかもしれない。

 

したがって,ノートは,「書くこと」の一つの分野にはちがいないが,従来のようにただ読みに奉仕するだけのせまいものであってはならない。

社会の要求に適応する生活技能として,ひとりびとりが,「書くこと」をしっかりと身につけなければならない。小学校では,その基礎がためをするのである

ノート評価の問題点

p.209 

ノート評価の基準を外形的な美しさに置き,内容的なものや,書く過程のたいせつさを忘れていた,その偏見に我ながらあきれざるを得ない

p.210

ノートは書き手自身のものであるから,報告文や学級日記や,提出する作文のようにことさらきれいに清書する必要がないと思う。要は,なかみが問題なのである。

p.211

ノートをするということは,板書をまるうつしする機械的な書写だけではない。また,漢字の書き取りや,語句の意味を書くだけのものでもない。多面的な国語学習のなかで,それぞれの目的に応じて主体的に書く働きがなければならない。 

ノートの意義

p.213

したがって,ノートは,国語学習をダイナミックに動かす原動力となるばかりでなく,それによって身につける「書くこと」の生活技能が,社会生活に生きる基礎となるものでなければならない。「作文の時間」は,多くをとることができないが,国語の時間のなかでノートに書く時間は,授業操作の面でいくらでもとることができるはずである。

私は,「国語のノート学習は,作文である」と言いたい。これはけっして誇張した表現ではない。なぜなら,他教科で行うノートとはちがって,国語のノートは有力な学習材であり,ノートすること自体が,有力な国語学習であるからである。

 

【メモ】

  • ノート評価の問題点については,今も1960年代も変わっていない。→なぜか?

  • ノートが「書くこと」の一分野としての位置づけ。→「第三の書く」との関連はどう説明できるか?

  • 「国語科」としてのノートの位置づけが明記されている。→大村はま「学習記録」でも同様のことが主張されている。何が同じで,何が異なっているのか?

 

 

 

長田和雄(1955)『国語ノートの指導』

週末,ノート指導の歴史を知りたくて,1950年代のノート指導の本を探して読んだ。

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ノート指導本としての特徴は何か?

 今回手にした長田和雄(ながたかずお)の『国語ノートの指導』は,興味深いことに,大村はま同様,「とじ込み式ノート」の実践について書かれている。同時代の教員ということで,他の文献も調べてみると大村はまと同じ研究雑誌で実践研究を書いている。

 他のノート指導に関する実践記録と同様,ノートの価値やノートの体裁,ノートの内容に触れているのはもちろんなのだが,当時の受け持ちの生徒たちにノートに対する意識調査を行っている点と,生徒の具体的な記述が書かれている点が興味深い。

 

長田実践と今の実践とのつながりはどこにあるか?

 長田先生も,この時代の教師として「単元学習」にがっちり取り組まれているのが実践から分かるのだが,継続したノート指導や質を高めるための集団での取り組みなど,現在でもノート指導の工夫として挙げられることが,すでにこの本に紹介されている。

 グループ単位でノート指導をしている例については,協同学習の芽が見られるし,ノートを介した個別の面談の実施については,ポートフォリオ評価の実践としても捉えられる。

 すでに,これだけの実践群がノート指導に関して見られることに,ただただ脱帽である。

 私たちは,まだまだ過去の実践に学ぶことがある。

 

長田実践を受けて,今,私たちが学べることは?

 では,こうした実践例を受けて,今,さらに学習者にとって価値あるノートの活用となるにはどうしたらいいのだろうか。

 まず,当時と比べて国語の時間は圧倒的に少ない。索引まで作成していた当時の中学生たちと今の中学生では,これだけ豊かな活動を組むだけの時間も意欲もないのかもしれない。

 また,IC T活用の流れもあって,紙の束を見直すことも,今は課題となっている。 

 

 私たちは何を選択すべきか。

 安易な取捨選択にならないように,過去との対話がもっと必要なのかもしれない。

 次へ進むべき道筋を自分たちで見つけるために,実践史を引き続き読み続けようと思う。

「書くことの多角化」 —言語活動をどれだけ具体化できるか?

引き続き「第三の書く」を読んでいる。 

復刻版 第三の書く

復刻版 第三の書く

 

とにかく「視写」のイメージが強いこの本なのだが,改めて読むと,「書くこと」の全体像も示されていることに学びが多い。視写の意味や実際の実践方法を知るためには第3章までを読むといいだろう。

今回の読書で関心を持ったのは,第4章の「書くことの多角化」だ。

 

「書くこと」の授業を振り返る観点として読める!

学習過程で「書く」という行為には,どのようなバリエーションが考えられるのか,具体化された言語活動例が書かれている。

つまり,この章,子どもたちの日常の書くことの力がどの程度ついているのか,または,授業の中でどれだけの書く活動を取り入れられているのかをチェックする観点となる。

 

例えば,学習記録の実践との関連で言えば,授業後に感想や振り返りを書くので,「7寸感・寸評」が当てはまる。私の授業では思考ツールの活用やグラフィック・レコーディングなんかもよく行うので,「8図表・図好き・絵画化」も私の授業では比較的多く行われている活動と言えるだろう。

このように,授業の書くことに関する活動を見直す指標となる。

 

言語活動をどれだけ具体化できるか?

第4章を読みながら,大村はまの「学習記録」の実践を思い出していた。

学習記録を豊かに書き続けられる学習者に育つまでに,聞き書きができるとか,要点をまとめるとか,細かな指導のポイントがあるのを思い出した。

 

青木幹勇の実践においても,やはりその「書く」を細分化して体系化しているところに面白さがある。

教えることの過程で多くの問題は,具体と抽象の行き来をどれだけできるかにある。

一人一人の学習者には,単なる「書けない」という問題に対しても,よく注視したり,話を聞いたりしていくと,多種多様なハードルがある。そして,それだけ教え方にもバリエーションが必要だ。

 

自分が生まれた1986年に初版として提案されたこの本を読めば読むほど,身につまされるような思いになる。

襟を正して,もう一度書くことの全体像を見直すことで,今の自分の実践の課題が見えてくるのではないだろうか。

 

ただし,「視写」をすればいいとか,何か一つの技術だけを取り上げてぶつ切りに手渡しても仕方ない。

豊かにのびのびと鯉が泳ぐように,私たちが生きていく上でより豊かに書くことができる,

そんな書くことの教育をもう一度考えたい。

 

「書く」とは何か?

ぜひ,今から思いつくだけ挙げてみてほしい。

どれだけの具体的な活動を思い浮かべられるだろう?

『なってみる学び―演劇的手法で変わる授業と学校』刊行記念ウェビナーVol.2 感想

11月15日,日曜日の午後にウェビナーで以下の著書に関するお話を聞きました。

 

『なってみる学び―演劇的手法で変わる授業と学校』刊行記念ウェビナーVol.2 演劇人と語り尽くす! 授業と学校を変える演劇の力とは!

なってみる学び ―演劇的手法で変わる授業と学校

なってみる学び ―演劇的手法で変わる授業と学校

 

 

 

演劇コミュニケーション学

演劇コミュニケーション学

 

 

『なってみる学び』の著者の一人である藤原由香里さんとは,2015年の即興型学習会の合宿で共に学んだ思い出があります。大学院のこととか,藤原さんが考えていることなどを聞かせてもらった日をよく覚えていて,私が大学院へ進学することのきっかけの一つにもなっています。

インプロファシリテーターのすぅさんを北海道に呼んで学習会を開いた時には,私がまだ新篠津村に住んでいて,農村地帯の我が家に由香里さんを泊め,朝が苦手そうなのに豪勢な朝食を振る舞ってしまう,みたいな思い出があります(苦笑)。全然本には関係ないのだけれど,私にとっては少し先をゆくお姉さんとして,憧れのような存在の方が書いた本という認識で,丁寧に読ませてもらっています。

正直,今は日常の仕事の問題が山積みで,インプロやドラマ,演劇的手法に対して向き合う時間があまり取れていません。しかし,即興型学習会や獲得型研究会で体験したこと,すぅさんとの小学校でのインプロ授業の体験など,さまざまな「なってみる学び」は,主に子どもたちとの国語の授業や道徳の授業の中で,随所に散りばめられるようになっていると,自分では思っています。

 

現場の日常の中で,子どもたちに有益な学びを作っていくために何ができる?

昨日,外部の異質な人材が教室に入ってくることを示す「異邦人効果」について話題になった時,ゲストである蓮行さんが「隣の先生がたまに授業にやってくるだけでも異邦人効果は発揮される」とおっしゃっていました。

※蓮行さんにおかれましても,2015年11月に北海道で堀裕嗣先生と対談をする会にお越しいただいていて,今回のウェビナーは本当に懐かしい方々のお話を伺う機会になりました。

 

ゲストティーチャーを学校に呼ぶ問題は,私にとってとても高いハードルがあります。ちなみに,インプロに関しては,一度提案を試みて失敗した経験があります。冒頭で管理職や職員室の教員集団との合意をどのように図るかという話題にもなりましたが,20代だった私には先生方との信頼関係においても,コーディネーターとしても,力不足な点が多々ありました。

由香里さんがおっしゃっていましたけれど,担任を持ちながらのコーディネーターの仕事はなかなか大変な労力だと思いますし,調整的な役割よりも個人的な想いが強まってしまい,全体を見渡した提案ができなくなる印象があります。

そして,北海道という土地柄,道外の講師を呼ぶことは費用の面などでもクリアしなければならない問題があります。できれば,持続可能な形で,一回だけにならず継続して学ぶ場を築き上げていきたいと願うと,ハードルはどんどん見上げるような高さになっていきます。

現場の教師だけではできない学びの価値があることはわかっていても,それが職員室の教員間で共有できるかという問題もあります。私が「いい!」と思っていても,隣の先生にとっては「インプロって何?」「○○さんって誰?」ってところから始まるわけで,まずは私自身が話を聞いてもらえる存在になるところから始めなければなりません。

そして,いきなり上級な山を登ることには抵抗があるわけで,その辺の丘をハイキングする程度から始め,楽しさや価値を感じられることも重要です。

だから,冒頭から,蓮行さんがおっしゃってい多ことは自分に刺さるものがありました。

たくさんの抵抗を感じる中でどうしていったらいいのか?

今はコロナの状況もあって,外部から人を呼ぶことはさらに難しくなっている現状です。

まずは,学校の今あるリソースの中でできることは何か,という視点で考えることからだなあ,と思っています。

 

 

 

他者に対する想像力やリスペクトを育む伝記の授業

最近少しずつ読み進めている。

今朝は最後の”伝記教材における「第三の書く」”が気になって読む。 

復刻版 第三の書く

復刻版 第三の書く

 

教材文には,個人の生涯を集約し,伝記の形にしたものがあります。これをどう学習するか,まずは,すぐれた人柄,りっぱな業績を読み取り,それに感動をもつというのが,伝記理解の表向きの学習ということでしょう。しかし,これでは,どうも,人間理解,人物に学ぶという国語の学習としてはものたりない。その人物をもっと読み手に引寄せ,人物に学ぶとともに,伝記を書くというような学習ができないものか。(p.159)

 

なぜ「伝記」は面白いのか?

大村はまの単元学習を読んでいても「伝記」を扱う授業が気になってしまう。

元々,小学生くらいから世界の偉人伝のような本を読むのが好きだったからだろうか。

大学の卒業論文歌人伝で,歌人の生涯と作品とを照らし合わせ,生活の中で歌がどのようにして作られたかに思いを馳せるのが好きだった。

一人の人物が世の中の情勢に翻弄されながら,どのような選択をし,どのような表現が生み出されてきたのか,興味がある。

 

伝記は,自分の人生の主人公としてどう生きたのかを示す,ノンフィクションの物語だと思って私は読む。

子どもたちは,私たちには到底想像できないくらいの可能性があり,これから多様な生き方を選択できる。そんな存在だ。

その時に,自分を主人公として,どのようなストーリーを描いていけるだろうか。

一人の人生の一端を垣間見て,それを鏡としながら自分自身の人生のストーリーを描くことに向き合っていく。ここに伝記教材の価値があると思うのだ。

 

また,情報を取捨選択する力も必要になる。

実際に生きた人物に対して,どんなことに感心をもち,どんなことに情熱を注いできたのか,想像しながら読む力が試される。

国語科としては,まず,その人物が書いたものや話した言葉を視写するところから初め,その行為からその人物になってみることにより,想像力を育みたい。

 

青木の実践では,伝記を本として作る実践の手引きが載っている。本を作るというのも,学習記録づくりと関連して興味深い。

 

ぜひどこかで実践してみたいと思わせる提案である。