放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

8月13日(日)北海道新聞を読む。

8月13日(日)の北海道新聞を読む。

  • 放射性廃棄物の最終処分場選定に向けた文献調査
  • 原発処理水の放出計画,それに伴うホタテ価格の影響
  • 戦場体験者との対談
  • 無名の人たちの個人の戦争体験,証言をいかに残すか
  • 苫小牧・厚真等に見られる「トーチカ」

 他にも地域のいろいろな情報があるわけだが,書評欄も今週はキーワードが一貫している。

日本国語教育学会に参加する。

 8月10日,11日と筑波大学附属小学校で日本国語教育学会に参加した。その中で数井千春先生が「平家物語」に関する実践をエピソード語りの形式で報告されていた。「平家物語」の中にある鎮魂や戦を生きた人々の想いを読み取りながら,「ほんとうの言葉で語ること」に真正面から向き合って葛藤されている先生の姿や子どもたちの語りを読みながら,そこに居合わせた人は何も感じずには帰られないだろう。

 どんなに伝えようとしても,わかり合えないこと。それでも知ろうとし,自分の感じたこと考えたことを相手にことばを尽くして語ろうとすること。時に,そのことばが自分の思いと反して相手に伝わり切らなかったり,思ってもみない方向で理解されてしまったり,思いをぶつけるだけで逆に争いの火種となったりすることがある。それでも,教室で起こったことに目を背けずに残そうとした先生方の実践の記録は,どの報告も尊い

 

 雨によって肌寒いくらいの函館で,北海道新聞をめくりながらこの夏のことを考えている。

国語研究会夏の勉強会に参加する。

渡島国語研究会夏季学習会

 7月28日午後,地域の国語研究会の夏季学習会に参加する。春の学習会からの継続参加ということもあり,少しずつ研究概要や実践内容が見えてきて研究会の一員としての参加意欲が湧いてきた。

 基調講演が1つと提案が3つ。それぞれの中学校でどのような実践家がいるのかを知ることができた。加えて,小学校実践については,教材自体に触れることも私にとっては貴重な経験である。春の学習会で素材研究をし,7月に実践したものを記録として残す。このような,長期的なスパンで複数回の検討を挟んだ実践は,それだけで実践の厚みが生まれる。丁寧に学習者と教科の専門性を結びつける授業者でありたいと思った。

青年国語研究会夏の学習会

 7月29日10:30頃会場に着く。月1回程度オンラインで開催している研究会の対面会(参加者はスピンオフと呼ぶ)。お昼休憩を挟んで17:00まで。ひたすら対話なわけだが,オンラインでのそれぞれの実践や思いがつながっていき,それぞれの先生によってまた新たなものとして形作られていくのはおもしろいなあと何度も思う。

 青国研は,どの学習会よりも子どもたちが書いたものを読むことに価値を置いているので,参加しながら私ももっと学習者の言葉を読みたいな思っていた。その点から考えると,現状は教材をどう授業化するかとか,評価をどのように行うか,といった教師の指導性に時間を割いていることがわかってくる。もちろん教師の指導性も必要なのだが,学習者の思考や表現と合わせて深い学びの場が形成されていくことを考えると,両方の思考のクセを意図的に持つ環境が必要になるなと考える。

ワールド・クラスルーム

 夜は花火大会の喧騒を逃れて,森美術館へ。20周年記念の企画展である。映像作品が特に重厚で,閉館ギリギリまで見入る。

 日中の先生方とのやりとりで「自分の体験していないことをどう語っていくか」や「言葉で表現することだけが探究なのか」といったやりとりがあったので,その言葉に引き寄せられて見るものが多かった。

イー・イラン「TIKAR/MEJA(マット/テーブル)」2022

書くこととどう向き合うか。

 

 「時間がない」を理由に書くことを諦めつつあったので,この本に励ましてもらおうと再読する。今回は後ろから読んだので,論文を執筆することへの筆者の哲学が読み取ることができ,新しい発見だった。この本,自己啓発的な本だけれど,書くこととどう向き合うかという筆者なりの生き方の本なのだなあとも改めて思う。

僕は,長年スケジュールを守って書いてきた。僕の原動力になっているのは,先々の論文や書籍の刊行予定ではなく,「ちっとも書きたくなかったし,本当はベーグルを買いにいきたかったんだけど,今日もちゃんと書いた」という日々の小さな勝利の方だと思う。(p.154)

  日常生活には書くことよりも,自分を豊かにするもっと大切な時間もあると筆者は言う。思いついたときに書くような「一気書き」の生活をしていると,せっかくの大切な時間を棒に振ってしまうことになる。締め切りに追われて書くことになる。すると,執筆作業は継続したものにはならない。終わった後に書き切ったことへの燃え尽き感が残ってしまって,なかなか次の執筆に向かないこととなる。心理学者である筆者の行動分析学の考え方もベースにあるのだろう。

 大村はまの学習記録実践に触れていると,「筆まめな人になる」という言葉に象徴されるように,毎時間書くことが生活に根付いていく。学習者全員が毎時間切実に書きたいことがあるわけではないだろうけれど,書き続けることを手放さなかった教師としての信念が学習記録という形で残されている。それは,少なくとも一部の国語科教育研究の資料として価値がある。

 では,限られた時間に何をどれだけ書く人になれるのだろうか。

 今日は東京で青年国語研究会である。

複数テキストを用いた国語科授業の勉強

 大学院の演習で,共通テスト問題を読んで,自分で作成してみる課題に取り組んだことがあった。いろいろ授業観について考えさせられた記憶がある。

keynote.hatenablog.jp

 学力調査の変遷を見ていくと,複数の文章を読んで考える問題が当たり前になっている。このことが教科の先生と話題に上る。もはや,一教材で授業を終えることに対しても「これでいいのか感」があって,定期テストでは,教科書教材以外の初見の文章を用いて複数テキストを読む問題を作ろうという学校が多くなっている。

 ただし,複数テキストの問題生成の過程では,作成者が関連する教材を読む量が多くなり,時間がかかることも問題として上げられる。教育工学のいくつかの研究では,そうした問題を解決しようと,関連する教材をピックアップするようなシステムの開発も進んでいるらしい。研究っておもしろいなと思う。

www.jstage.jst.go.jp

 探究(総合)の授業では,複数の文献を読んで評価する学習活動が設定されることもある。論文もデジタル化されているので,資料を取り寄せなくても端末さえあれば読めるのもありがたい。

 一方で,自分にとって重要度の高い情報であるかの精査は学習活動として難易度が高いものだと思っている。どのようにして学習者が情報の軽重を見極めることを学んでいくことができるだろうか。検索をかけていて,お茶小の授業構想が面白そうだなと思う。

cir.nii.ac.jp

「信頼性や有用性,論拠の確かさ,テキストから推測される書き手の信念 や意図,動機,立場などに照らして,各テキスト内容に留保をつけたり,割り引いて考えたり,順位づ けしたりすること」 小林敬一(2010)「複数テキストの批判的統合」『教育心理学研究』58号 pp.503-516

  なるほど,複数テキストを読む際の「重み付け」とはこのように定義されるのか,と思ったりしている。

 今日はここまで。

大学院修了後の自分の現在地。

論文を書くことは生き方を考える問題だった。

 2020年,新型コロナウイルスの影響で学校が休校になっていく前後,私は大学院を修了したばかりだったので,現場に戻ったらたくさんの実践をして,論文をいっぱい書くのだ!と思っていました。査読論文の投稿にもチャレンジしていましたし,ギラギラしていました(笑)。

 今は,その気持ちが薄れています。なぜかというと,日常にやるべきことがありすぎるからです。私は国語科の教員ですが,授業で言えば,道徳や総合の授業も考えなければなりませんし,担任になれば学級経営や生徒指導も,学習者の安心して学べる環境づくりのために重要な業務です。中学生の学校生活をより充実したものになるために欠かせないものとして部活動もあります。学校運営上,自分に与えられた職務もありますし,教科指導の実践だけに力を入れて行なっていくには,一般教員としての働き方には多少無理があります。中学校の教育現場で働くとは,そういうものだなって思っています。

 実践をすることは,そもそもその質をある程度高めたいという教師としての欲望と付き合っていくことになります。もっといい授業をしたい,もっと力のつく授業はどのようにできるのだろうか,日々そんなことを考えます。しかしながら,日常のやるべきことをやっていると,明日の授業をどうするかを考えて,研究課題を意識したり,課題に関する先行研究はまともに読めないのです。少なくとも私はそうです。

 となると,実践の質を高めるために,教材研究をすることや,単元構想を考えることに時間が費やされていきます。目の前の学習者のために,明日の授業をどう作っていくかが日々のミッションになっていきます。実践者として最大限力を発揮したいという願いが教師として生きる時に最も大きくなっていくのです。

 ここまで書いて,大学院修士課程修了以後,特にコロナ禍から元の教育活動を復元させようという流れの中で,ずいぶんと研究分野から気持ちが離れてしまったなぁと実感します。研究論文を書くことについては,実践を先行研究の文脈の上で位置付けるためにも重要なことだと考えていますが,36歳の私が,果たしてこれから何をどれだけ書けるのだろうかと考えてしまいます。

 夏休み中は,これまでの国語科教育学研究のレビューを見たり,いろいろな人にお会いしながら自分の軸足をどこに置くかを考えたいと思っています。

書くことをルーティン化できるか

書きました

 正直,テーマと正対して書けたとは言えないのですし,もっと汎用的な実践にブラッシュアップする必要があるなあと痛感しましたが,学習記録実践の一部分を記録する貴重な機会でした。生徒と原稿を読みながら考えていけたのも面白かったです。

 自分の担当したところ以外では,毎号そうなのですが,座談会と佐内先生の史的論文が特に面白いです。

執筆作業によって生活パターンが崩れる

 今回の原稿執筆をする過程では,疑問に思って文献・資料を読むことになったり,授業の省察につながったりする部分が少なからずありました。書くことは,教師の力量形成において重要なことだという認識も改めて実感します。

 ただし,発信することが日常の優先順位として上位にくるかというと,そうではありません。学校現場には優れた実践家が数多くいらっしゃいますが,実践を発信できるかはまた別の話です。日々の生活のうち,書くこと(読むこと)にどの程度重きをおくかで大分変わってくるようです。

 私自身も,今回は異動してすぐにいただいた原稿依頼だったいうこともあり,これまで以上に日常業務との両立が難しかったです。書くことの価値はわかるのですが,目の前の生徒を前にして,授業や学級経営に費やすことの方が優先順位が高くなるのは当然です。さらに,食事や睡眠,家事,家族との時間などの生活時間も確保するとなると,やはり読み書きの時間は十分に確保できません。

 となると,締め切りのある原稿を書くことは,一定の生活リズムを崩して書くことになります。ここに,教育実践が広く共有されていかないことの問題点があるように思います。

 この問題を解決するためにのは,書くことを短時間でも日常の中に位置付けることでしょうか。言うや易く行うは難しです。改めて,書くことをいかに習慣化するかについて考えさせられます。

 書きながら,この本を思い出していました。本を手に取ってからだいぶ年月が経ってしまったようです。

 

 

レビュー本を書きたい。

 GWに個別最適な学びと協働的な学びに関する書籍を収集しました。10冊程度。

 一人ひとりの可能性を信じて持ち寄って学ぶとか、一人ひとりの特性や進度を理解して学ぶとか、きれいなことほど取りこぼすものが多くて危うさを感じずにはいられません。可能性とか、特性とか、みんなが思っているものはどこにあるのだろうか。それは、聞かないとわからないなと思いながら、読んでいます。

 それでも、何か足りない。

 たくさん考えて読んだり、話したりするような読書家になるにはどうしたらいいんだろう。