放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

書くこととどう向き合うか。

 

 「時間がない」を理由に書くことを諦めつつあったので,この本に励ましてもらおうと再読する。今回は後ろから読んだので,論文を執筆することへの筆者の哲学が読み取ることができ,新しい発見だった。この本,自己啓発的な本だけれど,書くこととどう向き合うかという筆者なりの生き方の本なのだなあとも改めて思う。

僕は,長年スケジュールを守って書いてきた。僕の原動力になっているのは,先々の論文や書籍の刊行予定ではなく,「ちっとも書きたくなかったし,本当はベーグルを買いにいきたかったんだけど,今日もちゃんと書いた」という日々の小さな勝利の方だと思う。(p.154)

  日常生活には書くことよりも,自分を豊かにするもっと大切な時間もあると筆者は言う。思いついたときに書くような「一気書き」の生活をしていると,せっかくの大切な時間を棒に振ってしまうことになる。締め切りに追われて書くことになる。すると,執筆作業は継続したものにはならない。終わった後に書き切ったことへの燃え尽き感が残ってしまって,なかなか次の執筆に向かないこととなる。心理学者である筆者の行動分析学の考え方もベースにあるのだろう。

 大村はまの学習記録実践に触れていると,「筆まめな人になる」という言葉に象徴されるように,毎時間書くことが生活に根付いていく。学習者全員が毎時間切実に書きたいことがあるわけではないだろうけれど,書き続けることを手放さなかった教師としての信念が学習記録という形で残されている。それは,少なくとも一部の国語科教育研究の資料として価値がある。

 では,限られた時間に何をどれだけ書く人になれるのだろうか。

 今日は東京で青年国語研究会である。

複数テキストを用いた国語科授業の勉強

 大学院の演習で,共通テスト問題を読んで,自分で作成してみる課題に取り組んだことがあった。いろいろ授業観について考えさせられた記憶がある。

keynote.hatenablog.jp

 学力調査の変遷を見ていくと,複数の文章を読んで考える問題が当たり前になっている。このことが教科の先生と話題に上る。もはや,一教材で授業を終えることに対しても「これでいいのか感」があって,定期テストでは,教科書教材以外の初見の文章を用いて複数テキストを読む問題を作ろうという学校が多くなっている。

 ただし,複数テキストの問題生成の過程では,作成者が関連する教材を読む量が多くなり,時間がかかることも問題として上げられる。教育工学のいくつかの研究では,そうした問題を解決しようと,関連する教材をピックアップするようなシステムの開発も進んでいるらしい。研究っておもしろいなと思う。

www.jstage.jst.go.jp

 探究(総合)の授業では,複数の文献を読んで評価する学習活動が設定されることもある。論文もデジタル化されているので,資料を取り寄せなくても端末さえあれば読めるのもありがたい。

 一方で,自分にとって重要度の高い情報であるかの精査は学習活動として難易度が高いものだと思っている。どのようにして学習者が情報の軽重を見極めることを学んでいくことができるだろうか。検索をかけていて,お茶小の授業構想が面白そうだなと思う。

cir.nii.ac.jp

「信頼性や有用性,論拠の確かさ,テキストから推測される書き手の信念 や意図,動機,立場などに照らして,各テキスト内容に留保をつけたり,割り引いて考えたり,順位づ けしたりすること」 小林敬一(2010)「複数テキストの批判的統合」『教育心理学研究』58号 pp.503-516

  なるほど,複数テキストを読む際の「重み付け」とはこのように定義されるのか,と思ったりしている。

 今日はここまで。

大学院修了後の自分の現在地。

論文を書くことは生き方を考える問題だった。

 2020年,新型コロナウイルスの影響で学校が休校になっていく前後,私は大学院を修了したばかりだったので,現場に戻ったらたくさんの実践をして,論文をいっぱい書くのだ!と思っていました。査読論文の投稿にもチャレンジしていましたし,ギラギラしていました(笑)。

 今は,その気持ちが薄れています。なぜかというと,日常にやるべきことがありすぎるからです。私は国語科の教員ですが,授業で言えば,道徳や総合の授業も考えなければなりませんし,担任になれば学級経営や生徒指導も,学習者の安心して学べる環境づくりのために重要な業務です。中学生の学校生活をより充実したものになるために欠かせないものとして部活動もあります。学校運営上,自分に与えられた職務もありますし,教科指導の実践だけに力を入れて行なっていくには,一般教員としての働き方には多少無理があります。中学校の教育現場で働くとは,そういうものだなって思っています。

 実践をすることは,そもそもその質をある程度高めたいという教師としての欲望と付き合っていくことになります。もっといい授業をしたい,もっと力のつく授業はどのようにできるのだろうか,日々そんなことを考えます。しかしながら,日常のやるべきことをやっていると,明日の授業をどうするかを考えて,研究課題を意識したり,課題に関する先行研究はまともに読めないのです。少なくとも私はそうです。

 となると,実践の質を高めるために,教材研究をすることや,単元構想を考えることに時間が費やされていきます。目の前の学習者のために,明日の授業をどう作っていくかが日々のミッションになっていきます。実践者として最大限力を発揮したいという願いが教師として生きる時に最も大きくなっていくのです。

 ここまで書いて,大学院修士課程修了以後,特にコロナ禍から元の教育活動を復元させようという流れの中で,ずいぶんと研究分野から気持ちが離れてしまったなぁと実感します。研究論文を書くことについては,実践を先行研究の文脈の上で位置付けるためにも重要なことだと考えていますが,36歳の私が,果たしてこれから何をどれだけ書けるのだろうかと考えてしまいます。

 夏休み中は,これまでの国語科教育学研究のレビューを見たり,いろいろな人にお会いしながら自分の軸足をどこに置くかを考えたいと思っています。

書くことをルーティン化できるか

書きました

 正直,テーマと正対して書けたとは言えないのですし,もっと汎用的な実践にブラッシュアップする必要があるなあと痛感しましたが,学習記録実践の一部分を記録する貴重な機会でした。生徒と原稿を読みながら考えていけたのも面白かったです。

 自分の担当したところ以外では,毎号そうなのですが,座談会と佐内先生の史的論文が特に面白いです。

執筆作業によって生活パターンが崩れる

 今回の原稿執筆をする過程では,疑問に思って文献・資料を読むことになったり,授業の省察につながったりする部分が少なからずありました。書くことは,教師の力量形成において重要なことだという認識も改めて実感します。

 ただし,発信することが日常の優先順位として上位にくるかというと,そうではありません。学校現場には優れた実践家が数多くいらっしゃいますが,実践を発信できるかはまた別の話です。日々の生活のうち,書くこと(読むこと)にどの程度重きをおくかで大分変わってくるようです。

 私自身も,今回は異動してすぐにいただいた原稿依頼だったいうこともあり,これまで以上に日常業務との両立が難しかったです。書くことの価値はわかるのですが,目の前の生徒を前にして,授業や学級経営に費やすことの方が優先順位が高くなるのは当然です。さらに,食事や睡眠,家事,家族との時間などの生活時間も確保するとなると,やはり読み書きの時間は十分に確保できません。

 となると,締め切りのある原稿を書くことは,一定の生活リズムを崩して書くことになります。ここに,教育実践が広く共有されていかないことの問題点があるように思います。

 この問題を解決するためにのは,書くことを短時間でも日常の中に位置付けることでしょうか。言うや易く行うは難しです。改めて,書くことをいかに習慣化するかについて考えさせられます。

 書きながら,この本を思い出していました。本を手に取ってからだいぶ年月が経ってしまったようです。

 

 

レビュー本を書きたい。

 GWに個別最適な学びと協働的な学びに関する書籍を収集しました。10冊程度。

 一人ひとりの可能性を信じて持ち寄って学ぶとか、一人ひとりの特性や進度を理解して学ぶとか、きれいなことほど取りこぼすものが多くて危うさを感じずにはいられません。可能性とか、特性とか、みんなが思っているものはどこにあるのだろうか。それは、聞かないとわからないなと思いながら、読んでいます。

 それでも、何か足りない。

 たくさん考えて読んだり、話したりするような読書家になるにはどうしたらいいんだろう。

異動して知る学習記録のこと。

 教育大学附属学校へ異動しました。3月25日付の北海道新聞に,中学校教職員「退職者」名簿に自分の名前があったため,各方面にご心配をおかけしてしまったのですが,割愛退職といって,形式上の退職となります。引き続き教職員であることに変わりありません。

 

 道外の方には 札幌から函館への移動は想像つかないかもしれませんが,片道240kmの往復はなかなかの労働でした。教職員に限らず,北海道内を移動する方々の3月の大変さを身に沁みて実感するところです。それでも,新しい環境に身をおくことで,新しい活力を見出してきた私の気質には,引越は有難い環境の変化です。

 最も大きな変化と言えば,この機会に改めて紙の学習記録を読み直したことでした。令和3年度からのタブレット活用により,ほとんどの記録をデジタルに依存していたわけですが,結果としてはアーカイブ機能の見通しがうまく持てなかったため,今はすぐに閲覧できない状態になっています。別な方法がもっとあるのだろうなと思います。この辺りはもう少し学びたいところです。

 一方で,紙の学習記録は,相当なダンボールの量になりましたが,令和3年度以前の卒業生の記録を今でもすぐに読み返すことができます。全ての時間が,学習者の手で記録されています。学習記録実践は,その重さも,場所を取る部分も,湿度を管理して保管しなければならない労苦も含めて,本当に大変な実践です。しかし,授業者にとっても,学習者にとっても,見返すことで新たな発見につながります。リフレクションとしての機能は大きなものです。

 

 教育現場で働くようになって15年目になりました。とにかく過去の実践は全て水に流してしまったかのように消えてなくなってしまうものだなと思っています。どの年代にどのような授業をしたかを知ることができる,記録としての価値が学習記録にはあることを改めて知るのでした。

 

 

2022年に出版された道徳教育関連の書籍12選

 私のここ数年の道徳授業は,インプロ(即興演劇)実践の場として活動型のプログラム開発にチャレンジすることが多かったです。かなり偏った授業づくりをしているため,今年はもう少し全体像を知った上で実践したいのですが,どうだろう。

 とにかく,この1年は全く教育書を手にしていない。買ってすらいない……。ひとまずどんな書籍があるかCiNiiで調べてみました。おそらく一つの分野で10冊以上読めば最近の傾向を知ることができるでしょう。繰り返しますが,1冊を除いて全く読んでいません。宣伝文句だけで書きます。

大学の道徳教育の参考資料として使われているんだろうな,という本。基礎資料としてどうかな。参考資料に派生する本だといいな。歴史を知るってことは大事なことだと思う。

板書で見るシリーズは小学校版でよく見かけるけど,中学校バージョンで,しかも道徳授業のものもあるのか……。板書は1時間の流れがわかりやすいビジュアルテキストだろうな。ICT時代になって板書の機能も変わりつつある中で,板書はどう変わっているのだろうか。振り返ると,個人的には電子黒板とタブレットによって板書量は確実に減ったなぁと思う。

明治図書の「発問・言葉かけ大全」シリーズ。教師の言葉で子どもの発言は変わるっていうのは当然のことで,売り文句の「指導の語彙」って表現がすごい。

ご存知「考え,議論する道徳」の基礎スキル本。初任者向けと思ってても,実際にはこれまでの実践の振り返りになったりするのかな。

同じく「考え,議論する道徳」シリーズ。「導入・終末&評価」は,実践の場でもどうあるべきか迷っている人が多そう。

「いちばんやさしい」とか「ゼロからわかる」とか,入門期の先生をターゲットにしている本が多いですね。

佐藤幸司先生のご著書。読売新聞の連載をまとめられた1冊です。道徳授業をいかに作るか,「ニュース」という教材を扱った実践提案本でしょうか。

この本だけ唯一読みました。雑感ですが,道徳に限らず「地域教材での授業づくり」という発想は,地方の研究発表で一定の実践の蓄積がある気がします。個人的には故郷の地域教材を扱っているので,いろんな感情が湧きました。

一番読みたい本かも。「哲学」ってキーワードはどのあたりから学校教育に浸透したんだろう。

桃崎先生の授業提案には「やってみたい」が詰まっている気がします。到底真似できませんが。笑 2010年代に何度か模擬授業を受けていて,今でも記憶に残っている授業があります。高い質で授業を構成する力が圧倒的です。これまでの勤務校でも職員室の誰かが1冊は持っているシリーズです。

モラルジレンマ授業理論の本らしい。「道徳は教えられない」と言えば……

2023年出版本ですが,こちらの本も気になります。